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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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飯坂古道から奥の細道に寄り道:五郎兵衛館跡付近

  飯坂古道は、半沢氏の歴史地図のメモによると、一盃森の東から続くほぼ真北に延びる古代の官道説があるという。これは、佐藤氏のいう飯坂古道の馬道ルートに相当する。今回は、徒歩道ルートを中心に歩いてきたが、川寒からは、馬道と徒歩道は合流して進むので、この古代の官道古道説のある道を歩いてきたことになる。

星の宮まで辿り着いてみると、「奥の細道」に寄り道したくなった。宮前を左折して、河岸段丘の端に沿ってできた道を進む。これが、河岸段丘にそって芭蕉が進んだ道と有力視されているルートである。
a0087378_5163767.jpg 途中の林の切れ目から視界が開け、北側が展望できる。







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道なりに歩を進めると、やがて稲荷社が見えてくる。








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ここが、五郎兵衛館跡で佐藤基治の家老大越五郎兵衛の居舘という言い伝えがある場所である。







a0087378_519303.jpg 医王寺駅前から館跡を見渡すが、それらしい面影は感じられない。

  芭蕉は、ここから五郎兵衛館跡の南を走る寺への本道を通ったのか、河岸段丘の縁をそのまま進んだのかは分からない。いろいろ想像をめぐらしながら散策する。





 五郎兵衛舘跡
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文治5年(1189年)、源平盛衰の巨大な歴史の嵐が吹く頃、大鳥城主佐藤基治の家臣大越五郎兵衛義持が守っていた館跡、北東を小川の段丘によって守り、南から西北までを土塁で囲んだ舘であった。
 ここ(標柱)は東南のすみにあたり、ここから西南までを土塁を回らし、土塁の外側に濠を切り東西65件(117m)南北72件(130m)の舘であった。
 大越五郎兵衛は文治5年8月7日、源頼朝の大軍を石那坂で迎撃奮戦するも敗退、同年8月13日大鳥城落城、佐藤氏亡ぶ。
建武2年(1335年) 大越五郎兵衛門行忠、大越氏を佐藤氏と改姓して土着する。以来この地を五郎兵衛舘として地名に残されてきた。
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芹(せり)地蔵と芭蕉道
昭和26年、古いお堂を解体したところ中心の柱に宝暦10年(1760年)4月14日建立とあった。
文禄2年(1689年)芭蕉が通った「奥の細道」は、星の宮を交点として瀬上から医王寺への東西の路であり地蔵堂のあるこのあたりが、舘跡の道と伝えられている。
道標の図
平成16年 9月吉日
飯坂町史跡保存会
by shingen1948 | 2007-05-06 05:37 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)