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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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田地が岡舘跡を訪ねる

 伊達政宗と対峙した畠山氏の二本松城へ入城する前の史跡を訪ねた。
田地が岡舘跡を訪ねる_a0087378_4412399.jpg
塩沢小学校の入り口に、田地が岡舘跡の碑が建っている。その脇に説明板があり、以下のように説明されている。
この周辺は、足利時代に、奥州探題として下向した畠山高国が、正平元年(1346年)に居を構えたところである。畠山家四代満泰が、(現在の県立霞ケ城公園)白旗ケ峯頂上に、応永21年(1414年)まで住んでいたといわれている。現在も小学校裏手には空壕や水掘跡(この部分はがれていて不明)「田地が岡館跡」の碑が建て(この部分はがれていて不明)いる。

小学校裏手の空壕り跡を確かめる。田地が岡舘跡を訪ねる_a0087378_4432033.jpg

 フリー百科事典『ウィキペディア』では「二本松城」の説明の中に、以下の記述がある。
 
畠山氏の以前の居館は殿地が岡(「田地が岡」とも。現二本松市立塩沢小学校の敷地)であった。殿地が岡は平城であるが、周囲の平地から20メートルほどの微高地に築かれており、館的な要素が色濃い城である。観応の擾乱以降不穏になっている情勢にあわせ、城の南方1.5キロほどの「白旗が峰」に築城したと思われる。


  福島県教育年報1980年(S55)-188/289pageの埋蔵文化財保護事業に発掘調査経緯が記載されている。それによると、小学校屋内運動場建設にともない7.2~7.20に、二本松市教育委員会が、根本豊徳氏を責任者に発掘調査した模様だ。
名称は、「田地ヶ岡館跡」二本松市塩沢1丁目238の1
調査項目 面積560鎌倉・室町館跡土塁

二本松市のホームページの年表から、この館に関わる部分を転記する。
1189文治 5 安達盛長が安達保の総地頭職に任ぜられる
1218(建保 6) 安達保が安達荘となる。(総地頭職は安達景盛)
1346(貞和 2) 吉良貞家・畠山国氏が奥州管領に補任される。畠山氏は塩沢の田地ケ岡に、 吉良は上長折の塩松に居を構える。
1351(観応 2) 畠山高国・国氏父子が吉良貞家に攻められ岩切城で自害する。
1413(応永20) 畠山国詮が奥州探題に補任される1441嘉吉 1この頃、畠山満泰が白旗ヶ峯に城を築き、二本松城と号す。

by shingen1948 | 2007-04-13 04:49 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)