地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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筆子その愛の映画を観て③差別意識について

 「筆子その愛」の映画に関して、先日は創立の意志とその感化力について考えてみた。今回は、差別意識について考えてみる。
 この映画では、差別意識は、二つ描かれている。
 一つは、華族という高い身分の同胞の中で、発生している。華族という高い身分同士の価値観を共にすることから、障害を異質のものとしてではなく、低いものとして排除しようとする意識として描かれている。家族が、筆子の感性を受け入れられない状況も、華族の高い身分のもの同士のの感覚であったからであろう。
 もう一つは、施設の外に住む住民の差別意識である。これは村という社会と異質の存在としての差別であろう。ここには、異質性とともに、密閉された空間という遮断された関係も関連していると思われる。

 共通するのは、どちらも関係性の濃い社会の中でのできごとということである。関係性の濃い社会では、異質なものが受け入れにくい。そういう側面がある。では、関係性の濃い社会は否定されるべきかというとそうではない。
 関係性の濃さは、プラスに働けば、協力性になる。自治体の問題で、結いの心の大切さを謳ったが、これは関係性の濃さを維持することであり、失った場合は復活することである。ただ、そこには、作業性が必要になる。作業性のない関係性は、うっとうしい関係になる。
 障害児をかかえた筆子の場合は、関係性の濃さは、強要性を帯びていると感じてもおかしくはない。脱出したくなる社会である。それに対して、施設に抜け出してからは、関係性の濃さと作業を伴う関係性の世界に飛びこめたということだ。更には、施設に同質性を感じることが出来たのであろう。彼女の強さは、ここで、居直れたということだと思う。

 さて、現実社会だが、結いの心が再生できそうな素敵な地域であればあるほど、関係性が強くなる。そこに作業性が伴わなかったり、こちらに筆子のように負い目あれば、うっとうしい関係となる。相手にその意識が無くても、差別と感じるようなことが起きることになるだろう。
 ここで「筆子その愛」の映画が参考になるのは、彼女の信念としての居直ってしまえばふんぎれるということであろう。
「筆子・その愛 天使のピアノ」の映画詳細、映画館情報はこちら >>
by shingen1948 | 2007-03-13 21:02 | ☆ 映画話題と視聴記録 | Comments(0)