地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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飲料水確保へのみち~福島水保地区

豊かであるが故に失う文化、あるいは発達しなかった文化という観点があるとすれば、逆に、貧しかったが故に残され文化、あるいは、発達した文化ということがあるはずだ。     
福島市水保地区の「源兵清水」から始まる公共施設に飲料水を確保する物語は、その具体例だと思う。
この「源兵清水」が涸れた後、この地区では、遂には、自分たちで吾妻山の伏流水を、水源にして延々と水道を引いてしまう。その水道は現在も現役で、飲料水を供給しているのだ。
しかし、そこにたどり着くまでには、飲料水確保のための苦労の積み重ねがあった。その苦労と重ね合わせてこの水道運営を見詰めることが何かを示唆することになると自分では思っている。a0087378_8513322.jpg
昭和51年9月13・14日の両日にわたって「福島民友」は、[「水保」の地下水OK(福島市水道部) 住民と取水で合意]と報じている。それほど、この地区が福島市と対立した背景には、この地区の飲料水の思いについて、行政が真剣に対峙してこなかったことのつけだったのだ。
簡単に、「源兵清水」が涸れたと記事にしたが、その涸れた原因は、一つは農地構造改革の影響であり、もう一つが、フルーツライン建設に伴う工事の影響であると考えられた。ところが、それぞれの責任者は、相手にその罪をなすり付けあったのだ。上記合意にたどり着いたとはいえ、少なくとも私が話を聞いて回っていた平成11年まで地域住民の行政に対する不信感と恨みは残ったままだった。
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「源兵清水」が涸れるまでの経緯と涸れた後、住民が、自らの力で安定した水道を引いてしまうまでの経緯は次の通りである。図で表したのは、村の人々の話から、「源兵清水」以降の配管変更の概要をメモしたものである。

昭和2年 4月 次第に水量が細くなった清水を、地域の消防組が半月かけて奉仕作業し、清水を復活させる。
昭和8年10月 「源兵清水」渇水。このまま放置できないので、小川の水を暗渠を使って簡易浄水し供給する施設とする。この施設を昭和25年まで使用する。
昭和25年 各所の清水を使って、配管でつなぎ合わせることによって、衛生的な水を安定供給する工事をする。
昭和36年フルーツラインより上部の土船地域の住民が水道組合を結成し、安定した衛生的な水を供給する。
昭和53年総ての土船地区への衛生的な水の安定供給をめざし、現在の水源とする。

by shingen1948 | 2007-01-14 08:56 | ◎ 水 | Comments(0)