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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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スポットライトに照らされない陰に実感を求めて

a0087378_10583480.jpg スポットライトを浴びる地点を訪ねると、スポットライトに照らされた部分はとてもよく見えるのだが、それ以外のことについては見落とすことが多い。これが、会津を離れて過ごすようになって、周りを見渡しての実感である。
会津に住んでいる時に、史跡を観ると、城を中心にした権力者の変遷と中央の政権との関係にスポットがあたる。更に、戊辰戦争という劇的な物語の中心地とした部分にライトは照らされている。だから、会津を訪れる立場になっても、その観方を抜け出ることができない。

戊辰戦争でいえば、安達の里と関わって、史跡を訪ねて、まず見えてきたのは、会津攻めに至る経緯と対峙する西軍の動きである。そのスポットを訪ね、資料で経路をたどり、点を結んでいくと、地域との関わりの中での史実らしきものが見えてくる。
それでも、二本松での戦いが多少スポットライトを浴びる分、その他の部分は陰になる。母成峠の戦いなどの光は薄い。しかし、その経路をたどっていくと、いろいろな資料に目が向くようになり光が見えてくる。
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それにしても、スタートの時点で、光がまったく無ければ、何もみえなかったはずである。
そんな時、僅かのひかりをあててくれるのが、半沢氏のマップメモである。これをもとに歩いていると、書かれていることに出会ったり、地区の方が建てた案内板に出会ったりする。
現在頼りにしているのは母成部分マップメモだ。
このマップメモでは、この母成を中心にした三つの戦いに光を当てている。
その一つが、勿論、戊辰戦争である。
その二が、伊達政宗の通ったみちである。天正17年(1589年)伊達政宗が、葦名氏を攻略するため、安子島城や高玉城などを攻め落としながら、猪苗代城に入るためのコースだ。半沢氏は、銚子ケ滝を経由して石筵~母成経由の可能性もあると見ているようである。        
その三が、昭和50年(1975年)の石筵の牧場に県が突然食肉流通センター建設を通告したこによる住民反対運動だとしている。機動隊導入にもかかわらず、二年後に白紙撤回させた住民運動である。

 現在、第二の伊達政宗の攻防を確認中だが、本宮付近の様子は、ちょうど良い光で確認できたと思っている。しかし、二本松の畠山氏との対峙では、二本松城にその後スポットライトがあたる時代があったことと、畠山氏が、地位的には、華やかなスポットライトを当てられそびれた存在であることで、なかなか実感が伴いにくい状態が続いている。

 それでも、それ以前の時代に比べれば、どうにか形は見えてくる。光があたることのよさと不幸を見極めながら、風の人としての眺めを確保しようとしているのが現状だ。

さて、畠山氏の心情だが、もう一つしっくりしない。
畠山氏の残念な思いは、中心権威者との関わりのバックボーンを大切にした系図を中心とした権威者の想いが分からないと見えてこないもがあると思えてきた。



 畠山氏は家系的には、源姓足利氏の系統を引く。しかも長男である。残念なのは、足利義兼の子義純は庶子だった。そのため、足利宗家の家督を継げなかった。そのかわり、畠山重忠が誅殺されたときに、その未亡人へ義純を入り婿させることができ、畠山の名跡を継がせた。
 その四代高国の代に南北朝時代を迎え、高国は吉良貞家とともに奥州探題に補され奥州に下向し、石塔氏にかわって南朝方の伊達氏・田村氏らに当たることになる。

  中央で足利尊氏・直義兄弟が争う「観応の擾乱」が起こると、直義方に付いた吉良貞家に尊氏派の畠山高国は攻め落とされてしまう。それでも、その後、国氏の嫡子国詮が二本松を拠点として奥州探題職を受け継ぎ、満泰の時に二本松城を築くまでになる。

戦国の時代となると足利政権を背景とした二本松畠山氏は衰退に向かい、義国の代には安達半郡、安積半郡をようやく知行し、芦名氏の下風に属するようになる。
  十五代義継は、塩ノ松城の大内定綱を保護したことから伊達氏の攻撃を受けることとなり、二本松のわずか五村の保有を許されるとの条件で降伏を許された。伊達輝宗に会見後、義継は輝宗を拉致することになる。

恐らく、建前上は、講和の御礼だろうが、この条件では、存続できない旨の交渉もしたに違いない。それを輝宗が拒否したので、輝宗を拉致したというところであろうと想像できる。名門出身であるがためのプライドと家系の維持に押し潰されていく畠山氏の哀れさを感じる。

なお、人取り橋の戦いの後、連合軍が引き上げたので、伊達軍は二本松城を、攻め寄せたのだが、この城は落ちなかった。
この城が落ちるのは、その後の畠山家の内部分裂だ。天正14年に無血開場で明渡たされて、畠山氏は、会津に逃れる。しかし、天正17年に義綱が葦名義広に殺害されて畠山氏は滅亡する。
by shingen1948 | 2007-01-08 11:05 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)