水を慈しむ心の文化
2007年 01月 07日
ここは、地域の「土の人」にとっては、立て札を建てるぐらい分かりきった所であるが、自分としては、昨年の秋に、近隣を散策していて見付けた所であり、発見の喜びを伴った清水である。
この清水、景色として見ると、清水の奥に祠があり、神聖な場所として意識されていることを伺うことができる。赤いプラスチックのコップが置いてあり、村の人が飲料に供する意志を表している。
飲料水という観点で思い出したのは、子どもの頃に心に刻んだ「村里の景色」である。村里には、必ず小川が流れていて、家の前には、「洗い場」があって、そこで農作物を洗う姿を思い出す。この「洗い場」は、風呂の水を汲む場所でもあり、早朝には、水汲み場になっていて、飲料水を確保する場所でもあった。
水は、ある距離を流れることと時間がたつことによって浄化されるという意識があって、汚れを洗い落とす場所と、飲料に供する場所が共存できたのだ。
そして、この小川は、田に入れれば耕作物の必要とする水であり、池に入れれば、そこに飼う魚のための水となる。ここには、無意識のうちに、汚しきってはいけないという共存のための意識が働いていた。人が生きていくための源としての水である。
この小川に生える水草が、便所の尻拭きになったなどという余計なことまで思い出した。
こんこんと沸く清水には、スイカが浮かんでいる。そこから流れ出た清水には、シジミが住んでいて、おいしく食べた。
そういった忘れていた景色を思い出す。誰教えるということなく水を慈しむ心の文化が存在する。その村の水の文化の源に「織井の清水」「岩井の清水」があるということであり、そこに、祠があり、伝説があり、言い伝えることの大切さがある。
そのことを、思い出した。
「名勝 岩井の清水」
この清水は、俗に一盃清水といわれ、源義家軍の一行が、ここを通り水を求める兵士のために矢じりで岩を掘ったところ、こんこんと清水が湧き出したと伝えられています。しかし、円融天皇(平安時代)の頃の歌人曽根好忠の詠んだ和歌(安積の岩井)が曽丹集にのせられておりもうその頃には、この清水の名は都にまで知られていたと言うことです。
その後、交通路が変わるなどして世の中の人から忘れられていましたが、文化13年(1816)に本宮の国学者小沼幸彦が書いた石井考が白河楽翁公(松平定信)のみとめるところとなって名泉として世に認められ現在に至っています。
昭和60年2月
本宮町教育委員会
「あだち野のむかし物語」2-⑯岩井の清水と八幡太郎義家
昔、八幡太郎義家(源義家)の軍が奥州の戦いに参戦したときの話です。
都から従ってきた兵や、その途上に地方で参戦した大勢の兵を率いて、この地にやってきました。徒歩の兵は多くの山を超え、川を渡り、遠い道のりを歩きとおして戦うわけですから大変な苦労を伴うものです。
ここを通りかかった時、兵がしきりにのどの渇きを訴えるので、義家は矢尻で岩を掘りました。すると岩からこんこんと水が湧き出てきたのです。それが今で言う「岩井の清水」だそうです。
この近くの山中に八幡太郎義家駒留の石があり、岩の上にはひずめの痕といわれるくぼみがいくつかみられます。この岩に馬の足を踏ん張らして矢を放ったのでしょうか。八幡太郎義家は騎射の名人だったそうです。
この物語は「あだち野のむかし物語」2-⑯に掲載されています。
安達地方新しい旅実行委員会
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