地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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風に吹かれてママチャリで② 織井の清水

a0087378_1447862.jpg  風に吹かれて、ママチャリで、村の中を走ってみた。西方面からママチャリでいけるところまで行って、そこから山際沿いに東の方向を目指す。館を北に見える位置まで来て、そこで一服しながら景色を眺める。そこからは、気の向くまま自転車を走らせて、目に付いたものがあれば立ち止まるというコースである。
 目に付いたものが、織井の清水であり、ここで立ち止まってみた。

 地域を散策していると、言い伝えにいろいろあって、一見矛盾しているように見えるものが多い。若い頃には、これを批判的に受け止めていることが多い。しかし、年をとってくると、そこから言い伝えたかったことは何なんだろうと想いをめぐらせることが多くなる。
 若い頃も地域を調べている方に、諭されたことがあったが、実感としてよく分からないでいた。丸ごと受け入れるよさを知らなかったのだ。分析的に捉えたり、科学的に捉えることも、大切ではあるが、この心構えでは、伝えようとする心は伝わらない。伝えようとすることは、事実ということもあるが、物語を通して、比喩的にを伝えようということもある。小説は、物語りはフィクションでも、そこに真実を伝えようとする力があるように。

 織井の清水を前にして、いくつかの由来をどう受け入れるか考えてみた。
 村の誇りや比喩を通しての真実は何かということだ。
 清水とは、そのこと自体に、神聖さがある。これは、水のありがたさを感じないものには捉えることができない神聖さだ。そのありがたい水が自然に湧き出るところが清水である。清水を発見する喜びは、木の脇に水神を祭っていることで伺い知ることができる。

  湧き出たありがたい水を、ただ神に感謝するだけではなく、日々の清めとも思える公共の管理を促す文化となる。共同の水場にすることであり、もっと広く旅人に提供することである。この文化は、掘り当てる文化とは少し違う。
  織井御前の話は、産湯という生命の誕生には、この水は欠かせない神聖な水であるという付加価値を感じさせる。また、いろいろな説を生むという背景には、旅人も使える公共の井戸であったことを物語る。源義家を語るのは、時代背景が、南北朝時代から存在するという村人の誇りが読み取れる。近隣には、この時代の伝説が多い。吾妻山や安達太良山を中心とした山岳宗教も含め、交易のための水場としての地位は本当に存在していると感じている。

  新年に、水に関わる文化に心あそばせることができた。
石積みといい、その周りの落ち葉等の手入れといい、日々に美しい水場を保つ積み重ねに文化を感じてすがすがしかった。



織井の清水の脇には説明版があって、以下のように記述されている。
 この清水の由来についてはいくつかの説がある。一つ目は、江戸の天保年間に纏められ地「相生集」によるもので「折井」と記されている。二つ目は、明治44年に安達郡役所編纂した「安達郡案内」によるもので「降居」と記されているもの、三つ目は、昭和7年にまとめられた玉井小学校の「郷土誌」によるもので、「織井」と記されたものである。いずれも内容が異なるが、現在伝えられている由来はこの「郷土誌」のもので、「源義家」が奥州平定の際、義家の側女が産気づいたが、付近には水がないのを心配し矢の根で試堀したところ、清水が懇々と湧き出た。其の後、いかなる晴天続きでも水は涸れることがなかった。」といわれている。なお、相応寺境内に、義家の側女を祀った社「織井御前」が奉納されている。
a0087378_14473640.jpg清水の側に「南町の大ケヤキ」(県緑の文化財登録第111号)があるが、これは樹齢400年、樹高113m、胸高周囲590cmの巨木である。
大   玉   村
大玉村教育委員会

by shingen1948 | 2007-01-06 14:38 | ◎ 水 | Comments(0)