地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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伊達政宗と対峙するニ本松城の畠山を想う

霞ヶ城には何度か訪れているが、視点は、江戸時代、しかも戊辰戦争とのかかわりでの見方であった。二本松観光協会のホームページの「霞ケ城公園」の説明もこの視点から述べられている。
初代二本松藩主、丹羽光重が築いた城、「二本松城」。春は桜が咲き誇り全山霞につつまれたように見えたところから別名「霞ケ城」と呼ばれるようになりました。約1700本余りの桜が、みなさまの目を楽しませてくれます。
現在は城跡が公園となり、その庭園の四季折々の美しさは広く知られています。また箕輪門は城跡の風格を示すシンボルとなっています。

霞ケ城は、奥州街道 白旗ヶ峰山頂に築かれた「中世の山城」と 丹羽光重が築いた山麓の「近世城郭」からなるが、観光協会は、丹羽光重が築いた山麓の「近世城郭」について説明しているのだ。

しかし、今回は、伊達政宗と対峙する二本松城をイメージしたいのだ。昨年訪れた時の資料をもとに振り返ってみる。歴史の沿革でいうと、次のような概要である。
1394~1427年 奥州探題の畠山満泰が、山頂に居館を構える。
 畠山氏は、興国2年(1341年)、足利幕府から奥州探題に任ぜられて高国が、この地に居館を構え、二本松と改称した。応永20年(1413年)4代目畠山満泰のとき、山麓の居館からさらに山上にも城郭を築き、畠山性から二本松氏を名乗った。
 140余年にわたって畠山氏9代の居城となった。

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さて、ここからが、伊達政宗に対峙する畠山義継のイメージづくりになる。ただ、今回観ている景色は、復元発掘作業によるものだが、畠山氏の居城の時代の景色ではない。1590年 豊臣秀吉の奥州仕置により会津の蒲生氏郷の属城となり、石垣が積まれるなどして近世城郭として整備された後の様子だ。a0087378_222631.jpg二本松山頂の曲輪群は、二本松城が会津若山城主であった加藤嘉明の時代に形作られたものである。しかし、この地で畠山の想いを想像することは容易だ。なお、「日本三井戸」の一つ、「日影の井戸」は、畠山氏の時代からのものという。


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  畠山義継は、宮森城で伊達政宗の父輝宗を拉致して逃走、高田原で両名が戦死することになる。しかしこの事件も、突然起きるのではない。ここまでの経緯を確認する必要がある。

  奥州管領に補任された畠山国氏は塩沢の田地ケ岡に、吉良貞家は上長折の塩松に居を構えるのだが、高国、国氏親子は、吉良貞家に攻められ岩切城で自害するということが起きている。応永20年(1413年)には、畠山国詮が奥州探題に補任され、嘉吉 1年(1441年) 畠山満泰が白旗ヶ峯に城を築き、二本松城と号している。これが、畠山氏の二本松城居城の始まりだ。
  その後、天正11年(1583年) には、畠山義継が小浜城主大内定綱と連合し、百目木城主石川弾正を攻めたりしている。近くの有力者である石橋義衡が本拠を上長折から太田の住吉山城に移したりして牽制しているのだ。そういった経緯の中に、奥州探題の伊達家が二本松氏に対峙して、小浜城に進出してきていたのだ。脅威だったのだ。どうしたものかと思案してこれしかないという確信的な事件なのだ。

その事件の後、伊達政宗が、1万5000の大軍を持って攻めようとしているとの情報が入る。同時に、近隣の有力者は、畠山氏に同情してくれているという情報も入る。そこに、頼りにしていた葦名氏を中心とした3万の援軍が向かっているという情報が入るのだ。しかも、一日目は、伊達政宗の大敗である。ほっと胸をなでおろしたに違いない。

 ところが、援軍は来なかったのである。天正14年(1586年) 政宗の執拗な攻撃を受けて落城、畠山氏は滅亡し、この城には伊達氏の支城となり、城代が置かれたのである。
 
by shingen1948 | 2007-01-05 22:15 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)