地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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小浜城の伊達政宗に想いを広げてみる

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 小浜城跡には、平成17年に訪れたことがある。その時に、伊達政宗が居城としたことがあることは分かっていたが、それだけだった。ところが、今回、玉井氏と伊達政宗の関係を確認してみると、その伊達政宗が居城していたということで、想像が深まっている。そこで、訪れた時の写真をもとに整理し直してみた。すると、実感を伴った想像力が働いてくることを感じた。
  歴史を、時代を追って認識していくという正統派の学び方は、専門に学問した人にとっては、整理されたてよいのだろうが、知識で追っていくのは、私のような素人にとっては難しい。自分の調べた事をもとに、それを広げていくことにって、点が線になり、それが広がって面になるというように、実感が伴ってくるのだ。このような認識の仕方が、素人にとっては豊かに想像できる認識になることが分かった。


 さて、小浜城の概要だが、説明板には、以下のように解説されていた。
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 小浜城は、伊達政宗の会津侵攻の拠点として天正13年(1585年)か翌年にかけて居城したことで知られる。南方小浜川の谷を隔てて上館と呼ばれる宮森城があり、小浜城は下舘と呼ばれ、両城の間に集落があって、一体化構えであった。政宗在城中に父輝宗は宮森城にあって、二本松城主畠山義継によって有名な栗ノ須の変事が起こった。
 小浜城の成立は奥州探題の置かれた塩松(四本松)城の支城として、南北朝争乱来期に創築。室町時代には大内定綱の居城となっていた。政宗は白石若狭を城代とし、天正18年以降は若松城の支城として、蒲生氏が入った。
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 現在、城跡には、蒲生氏時代の石垣が残るほか、堀切、空堀が多くの曲輪跡が認められ、戦国末期の東北地方屈指の大城郭である。昭和56年に発掘調査がなされ、桁行四間奥行き八間の大型建物をはじめ5棟分のひさし付き建物の跡が見つかっている。左のイラストれーションは、この発掘成果と一連の調査の結果に基づき、日本城郭資料館長西ヶ谷恭弘氏が復元したものである。



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 更に、本丸に建っていた政庁の建物の予想図と城郭の予想図が示されてあった。
 ここを訪れた時、案内板で確認すると共に、本丸を確認した。撮影された写真は、本丸の石積みの近景と、やや山を下ったところから撮影した城郭の全体像である。

 整理しながら、伊達政宗を想像した。この城を中心に一万五千の兵力で畠山と対峙しているとき、葦名氏の動向の情報が入った。三万で、五百川近辺に迫ってきたというのだ。とりあえず、七千の兵力をここを中心に置いて二本松の畠山に対峙させるために残して、八千の兵力を従えて、白沢の岩角山を経由して本宮に向かう。
 その岩角山を通り本宮に向かうあたりから、先日までに確認したことと結びついていくという確認だ。


 説明の中には、塩松城が、奥州探題の城との記述がある。伊達家の家柄と重ね合わせてみる。
 
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 伊達家は、室町幕府から大名と認められている。奥州で認められているのは、葦名氏と伊達氏である。 
 伊達家は、源頼朝の奥州征伐のとき、伊達郡厚樫山の戦いで、佐藤荘司元春を破った功で、伊達郡を賜った。それで、16代輝宗まで足利将軍から諱名を拝領する慣わしがあったという由緒がある。また、14代・15代の稙宗、晴宗は、奥州探題に任じられて、居城を伊達郡から米沢に移していた。

 このことから、政宗の代になる前の様子の想像をも掻き立てる。
 政宗の祖父の時代から奥州探題ならば、塩松城は伊達家の配下ということになり、ここに勢力が及んでいたはずだ。自然、大内氏と対峙していたと推定できるのではないかと。
 更に、「人取り橋」の戦いで、玉井城を拠点に、500の兵と共に前線で戦った白石氏が、この城をまかされて、据えられていたことも読み取れる。

 本日の「福島民報」は、三百年以上の歴史を誇る伝統行事「白沢の岩角寺の大梵天祭」を報じていた。
by shingen1948 | 2007-01-04 18:52 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)