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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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庭坂湯町~湯元から離れた歓楽街形成の試み跡

岳温泉は、くろがね小屋近くの湯元から、延々と湯を引いて、温泉街をつくっている。何度かの変遷を経て、今交通の便と湯質の両方を満足させることに成功しているとみてよいだろう。同じように、湯元から遠く離れたところに温泉街を作ろうという壮大な計画は、近くの温泉にもあった。このことについて、平成4年4月20日(月)の「福島民友」の「ふくしま浪漫紀行」というコラムに「明治の世 うたかたの歓楽街」~今も残る湯小屋と懐かしい「天戸座」の建物という題で伝えている。概要は以下のようである。
明治14年に万世大路が開通したため、旧米沢街道の交通量が激減してしまった。宿場町として賑わっていた庭坂に、再び繁栄を取り戻そうという考えから、新しく温泉街を作ろうとしたのだ。そのために、2里も離れた吾妻の山間にある高湯温泉から庭坂に、お湯を引こうという壮大な計画である。庭坂湯町~湯元から離れた歓楽街形成の試み跡_a0087378_1957538.jpg 明治17年に三島県令の許可を得ると、工事は直ぐに始まった。延長500mのメーンストリートを8間幅の道路にした。そこから福島への街道も整備し、十数件の旅館や料理屋、5件の遊郭などが建ち並ぶ温泉街を形成した。庭坂湯町~湯元から離れた歓楽街形成の試み跡_a0087378_20164259.jpgその突き当たりには、共同館が建てられ、この歓楽街を湯町と改称した。
  翌18年5月からは、松の木をくり貫いた木管や土管に湯樋工事も進められ10月25日には完成した。それから2ヵ月後、引湯完工と福島街道開通の祝賀会が湯町のシンボルである共同館で開かれた。
  これが見渡せる高台には、県令や部長、警察部長などの公舎である西洋作りの官舎が並んだ。ここを「官宅」といい、高級役人たちは、ここから二頭立ての馬車で県庁へ通ったと伝えられている。
 この湯町はかなり賑わったが、明治29年には、県が引湯運営を売却し、官舎も払い下げて手を引いた。それからは、客足が遠のいていった。
  明治31年には完全に引湯を停止し、13年間の活動に終止符が打たれた。
庭坂湯町~湯元から離れた歓楽街形成の試み跡_a0087378_19593941.jpg  手元に、この湯町の全図のコピーがある。どこから手に入れたかは忘れてしまった。
この図には、メーンストリートの様子が描かれている。突き当りが共同館である。「天戸座」の写真は、10年前頃たずねていった時の様子である。この時は、前面が朽ちはじめていたが、まだ面影があった。昔は、歌舞伎、大衆演芸や剣劇、レビュー、浪曲などが上演されていた。戦後は、映画が上映されていた。
官舎跡は、今は、園芸関係の方の庭になっているようだったが、面影は十分に感じられた。
 
by shingen1948 | 2006-12-29 20:04 | ◎ 山歩きと温泉 | Comments(0)