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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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伊達政宗と玉井氏

  安達地方にいると、どうしても伊達政宗との関係が気になるものである。「大玉村水利事業史」によると、玉井氏は伊達勢の攻撃で滅亡したとある。このことを、伊達勢の動きと比べてみることで、はっきりするかもしれない。
  まず、「大玉村水利事業史」記述を確認しておく。
 
天文16年(1547年)2月、二本松畠山義氏は田村隆顕、石橋尚義とともに安積郡を攻め、玉井氏は没落した。
 天正16年(1588年)三月、伊達勢の攻撃を受け、「玉井日向守為始、三百余人討ち取り候」とあるように館は滅び、村は伊達の支配下となった。

この記述に、「戦国大名二階堂氏の興亡史」のホームページの「田村氏」の記述を重ねてみると以下のようになる。
天文16年(1546)2月、三春の田村隆顕は二本松の畠山義氏・石橋尚義とともに安積郡に侵攻して十ヶ城を落とし、玉井城(安積郡大玉村)を自落させた。同年12月、岩城勢が田村郡小野地方に侵攻してきた。
なお、現在、玉井は安達所属の感覚だが、ここでの記述では、安積所属の感覚で記述されている。

次に、伊達政宗関係の出来事を、重ねてみる。
安達では、伊達政宗といえば、天正13(1585)年の「粟之巣の変事」に始まる人取り橋合戦が有名である。この中で、玉井関係を探すと、以下の出来事がある。
  
3万の軍勢で前田沢に押し寄せた連合軍に対して、玉井は伊達軍の布陣の一つになっている。前田沢は郡山盆地の北辺にあたる。そこから杉田の盆地へ出れば、二本松は目と鼻の先である。政宗は玉井城の背にそびえる大名倉山と、本宮城から瀬戸川館に至る阿武隈川・高倉山の作る杉田へ抜ける道を防ぐ位置を伊達軍の防衛線とした。
 前田沢を見下ろす高倉城に富沢近江・桑折摂津・伊東肥前に鉄砲300挺を添えて先駆隊とし、本宮城へは瀬上中務・中島伊勢・浜田伊豆・桜田右兵衛、玉井城へ白石若狭を遣わした。

  前田沢の土豪・前田沢兵部は元、二本松の臣だっが、畠山義継の死後は、早々と伊達に身を持ち替えていたようだが、今度は連合軍優勢とみて、伊達を見限っている。恐らく玉井氏も、没落気味であったのだから、状況判断から伊達氏に従っていたと推定できる。
  なお、玉井城へ遣わされた白石氏は、伊達の古い一族で、成実と並んで伊達軍の主戦力であり、兵力500で、玉井城に進撃したあと最前線に出て戦っている。

  玉井氏が滅亡したという、天正16年(1588年)は、この戦いが一度小休止になって、4月18日に会津と岩瀬の軍が、安積郡に進撃してきたことと符合する。
 
 かつて安達郡の小浜城主であった大内備前守定綱と安積郡の片平城主片平大和守親綱兄弟が伊達方に寝返ったのを知った芦名平四郎義広が、会津・岩瀬勢からなる軍を催して安積郡に進撃した。このとき、高倉城主高倉近江守義行から急報を受けた二本松城主伊達藤五郎成実と大森城主片倉小十郎景綱は、玉井城と本宮城の城兵を糾合して観音堂山に陣をとった。
 高倉城には伊達成実勢から馬上侍二十騎を加勢として鉄砲五十挺と共に遣わした。

  こういった事件の記述から、玉井氏は、この時点では、会津葦名を大将としていて、滅亡に追いやられたと推定することができると思うのだが、いかがなものだろう。
by shingen1948 | 2006-12-28 10:01 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)