地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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ブログに書くということ

  ブログをやる理由を経験的に確かめている。
  今のところ、「書くことは、書くことを見つけることであり、日常の生活を見つめることである。」ということを理由にしておきたいと思っている。
 まず、書いていて分かるのは、書くことそれ自体は、考えを整理することであるということだ。
 次に思いつくのが、書くためには、書くことを見つけなければならないということだ。この見つけるという作業こそが、今のところ大きな仕事になっている。それは、日々の生活を見つめるという仕事である。今までは、聞き流し見流しだった(見流しは造語かな)。立ち止まって考えることは少なかった。立ち止まってみると、いろんなものが見えてくる。見えてくるものは、小さいけれども真実に近い感じがする。真の美しさであり、真の醜さである。包んでいたオブラートを透かして、ものの原型が見えてくるといった感じだ。
 更に、真の姿が見えてくると、そのかかわりが気になりだす。今まで見えていた世界が、虚構だったのではないかと思えることがでる。たいしたことではないのだけれど、自分にとっては大発見なのである。

 
最近の発見は安達太良山である。「安達太良山」から思いつくイメージは、「観光」であり、「温泉」である。智恵子が言う「本当の空」などという明るいイメージも浮かぶ。これを見つめ続けていると、それだけでないことまで見ることになる。
  まず、何の意識も無く、安達太良山の防災計画を見つけた。これは、今にして思えば、このことは、負のイメージを見つめていくことになっていたのだ。「荒々しい山」、「噴火」、そして、「災害」、「避難」といったことについて考えることになる。
  次に起きる意識の変化は、負のイメージを受けることのない地域の発見である。具体的には、玉井地区は、負のイメージの影響を受ける事がないという発見である。それは、日々の生活では、水のよさとしては気づいているのだが、安達太良山と関連付けては考えていない。
 更には、関係に思い至るのだ。水質を確認していくと、和尚山が、安達太良山の荒々しさをストップしていることに気づかされる。それは、堤防のようにそそり立つことだけでなく、木々がうっそうと茂り、足を踏み入れることまでも拒否することによることのすばらしさに気づくことになるのだ。登山のルートとしての解説の中では、「二度と通りたくない」などの記述を見つける。これは、負の記述になっているのだが、この人を踏み入れることを拒否する自然があることが、豊かな水系が保たれている原因なのだということを知るといった具合である。
  イメージの広がりは、これだけにとどまらない。行政の区切りは自然の区切りではないという当たり前のことを改めて思い知ることにもなるのだ。
  安達太良山の荒々しさの影響は、荒川まで影響しいることに気づく。そうすると、荒川の荒々しさと付き合う人々や、吾妻の水系が気になるといった具合に新たな広がりを意識することになるのである。
 今まで、点として見つめていたことが、線になり面になるという実感がおきはじめたところである。

 更には、書いたことを整理する必要が起きる。記事の量が増えてくると、分類をしなおすことが必要になってくるからだ。カテゴリーを整理していると、自分の頭の中が整理されてくる自分を感じる。上記のことも、やっている時点では、漠然としたものなのだ。漠然と何を感じていたのかが、この整理を通すことによって明確になっていくといった感じである。

 書く習慣を維持するために、ブロクを続けているというのが、今の段階での理由である。
 なお、最近のカテゴリーの整理状況だが、地域の散策を分類し、項目に分けている。未分類で書き溜めていくのは、そのまま「地域の散策」に書き溜める。それをふりわけるという感じであった。ところが、それだけで済まなくなった。「治水と親水」について小項目にしようとしたのだが、ちょっと大きなカテゴリーになっているという感覚が起きたのだ。そこで、「治水と親水」については、大きなカテゴリーとして独立させた。
by shingen1948 | 2006-12-23 07:23 | ブロクとわたし | Comments(0)