虐待について親密圏の変化で説明してみる
2006年 12月 22日
食事を十分に与えず三男(当時3歳)を死亡させ、二男も虐待したとして保護責任者遺棄致死傷罪に問われた福島県泉崎村北平山、無職、白髭和歌子被告(33)に対し、福島地裁は21日、求刑通り懲役6年を言い渡した。大沢広裁判長は「子の安全で健やかな成長への責任を負う母親の行動としては、強い非難に値する」と述べた。
判決によると、和歌子被告と夫の功被告(40)=1審で懲役10年の判決=は、04年ごろから三男広ちゃんに十分な食事を与えず、今年2月ごろには衰弱していたのに医師に診せず、5月28日に気管支肺炎で死亡させた。小学1年の二男(6)にも4年ほど前から食事を十分に与えず、発育障害を起こさせた。
和歌子被告も功被告から以前虐待を受けていたが、大沢裁判長は「本気になれば離婚を決意し、子供たちを連れ出して避難することが可能だった」と指摘した。【松本惇】
最近の子どもの犯罪の問題で、その心理状態が理解できないことが多かったのだが、土井氏の[「個性」を煽られる子どもたち―親密圏の変容を考える]での考え方を当てはめてみると、説明できそうだと思えてきたところだった。
しかし、子どもの世界だけではないのではないかと思えてきた。不可思議な事件、虐待のような事件にも当てはまることがあるのではないかと思えてきている。
不可思議なのは、母親だ。夫である子どもの父親に暴行を受けていたというのだ。頭を叩かれたり、ペンチで太ももを挟まれたりしたという。服を脱がされベランダに出されたこともあったという。それなのに、夫の虐待を見過ごすだけでなく、食事を与えないなど、夫の虐待に加担してしまっている。その心理はなかなか説明しにくいと思うのだが、親密圏の変化で説明できそうにも思える。
それは、親密な友人の規定についてである。今までなら、親密な友人という概念は、自分の率直な想いをストレートにぶつけることのできる相手ということになるだろう。「素の自分が表出」でき、「人間関係破綻の恐怖心」など考えない関係が、親友であり、両親や兄弟という家族という概念であった。
ところが、現代は、「親密な関係」とは、ストレートな気持ちを抑え込んで、「相手との良好な関係を保つ」ことであり、「装った自分の表現」する関係だという。この説明でみると、母親の妻としての夫をみる目が説明できそうだ。夫には、親しい間柄であるが故に、過剰な優しさと細かい配慮が必要となり、過剰な配慮で、つながる必要があったといえる。対立点の顕在化させない優しさのテクニックが必要であり、わずかな読み違いで、容易に破綻の危機にさらされてしまうほど危うい関係なのだ。虐待という犯罪も互いにつながっているためのネタにすぎなかったのではないか。
子どもは、母親にとっても「親しい関係」であるべきだから、装った自分でいてほしかったという想いだったというのはどうだろうか。そのことをしっかり教えるためには、しつけるしかなかった。自分の意見がいえる人になってほしいから、「ご飯をください」といえないうちは、ご飯をあげることはできなかったのだ。
そうゆうことができない子どもは、親しい関係ではない。だから相手として感情をもって接することはできなかった。憎しみとか、怒りといった感情もなかった。無感情に淡々と狩りのような感覚で夫の虐待を見ていたのだ。
親密圏の変化の概念で説明してみた。うまく説明されてしまっていないだろうか。
もし説明できているとするならば、これは犯罪を犯すようなゆがんだ子どもの人間関係ということにとどまらないということになる。大人の世界の人間関係も、同じだということになる。そこまで進んでしまったかと心配になってしまう。