地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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荒川流域は日々の治水管理で守られている

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 半沢氏が荒川の治水工事の概要を地図上にまとめられている。荒川は、1950年代の床固め、福島県施工ダム、林野庁施工ダム、建設省施工ダム等によって流れが制御されて、今の流域を保っていることが分かる。川にいくつもの線が引いてあるのは、床固めだ。荒川はかなりの急流で下るので、そのままでは川底の土砂が削り取られてしまう。それを防ぐため、小さなダムがいくつも並んでいる。
 堤防争いの対立の根底にある象徴的な洪水の流域の記録をなぞっておく。
  1910(明治43)の洪水の流域を「青い線」でなぞリ、1720享保年間の洪水流域を「赤い」でなぞった。大水の時に川を確認するお年寄りの頭には、このことが認識されての観察であり、思慮深いのである。
 半沢氏が直筆で書かれたのは、[明治43年荒川洪水のため水林の四村堤防が決壊、(河川工事男20~30歳、女15歳)、大正5年築堤工事竣工、水林地内に、大正4年2月11日付の治水記念碑建立]とのメモである。この、メモの治水記念碑について、別の所には、次のように記されている。
明治の末、荒川が大洪水を起こした時、荒井側で大きな堤防をつくった。それをおこって佐原や水保側ではその堤防を壊してしまった。その事件をおさめた時の記念碑(1915大正4年の水天宮)

  a0087378_4591692.jpg水林公園の管理事務所の前には、明治40年の治水記念碑がある。大水をせき止める堤防を造った記念碑であるが、この時に造られた堤防がもとで争いになったのだろうかと勝手に想像している。
 これらの記念碑は、この川の暴れを人間と共存のもとに防ぐことがいかに難しいかを教えている。全体的な視野に立って考え、妥協することでしか解決し得ないのである。洪水のたびに、対処療法的に堤防を造っても、かえって不具合が出て、争いになる。この川の厄介さである。これが解決するということは、互いの知恵を出し合い、全体的な視野に立ち、私欲を引っ込め、人間としての自然との共生を決意し、対立する人間との共存を誓い合うことである。私には、人間の知恵が深まっていくことを記念する碑に見える。
  
by shingen1948 | 2006-12-19 05:05 | ◎ 水 | Comments(0)