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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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地域を知れば、洪水予測ができる

 荒川は、その名の通り、暴れ川で、川の周辺の地域は、古くから洪水に悩まされている。今でも日々淡々と治水作業が行われていて、これを怠れば、人々は仕返しを受ける。ただ、今の治水は、人々の心を離れ、行政関係によって淡々と地道に努力をされているところであるようだ。それで、この治水作業と人々との意識をつなぐ作業が同時に進行しないと、しっぺ返しが来たときに、最小限度の被害に抑えられないという事情がある。
 
 平成10年あたりまでは、水害予測は地区のお年寄りの経験として生きていた。
 大雨が降ると、吾妻運動公園入り口の橋のたもとで荒川の暴れ具合を予測する。そこから上流は、右側の堤防が切れやすく、水保方面が洪水になる。下流は、向かい側の堤防が切れやすく、切れると名倉に水が行く。水量を見極め、経験を元に予測するのだ。
  水保方面が洪水の経験則の根拠は、明治43年の大水害だ。これは、地形をも変えるほど激しいものだったという。この時は、8月1日から断続的に雨が降り続いていた。荒川の水は増水し限界を超えた。12日朝6時に、佐原四か村堤防が決壊し、押し出した濁流は、佐原村を縦断して水保村に入った。鍵合内、上古屋の間を通り、辻内の南から榎内の西、中原の南を通り、明神前から真っ直ぐに百目木に達して須川に合流した。そのときの跡は今でも景色に残っている。
a0087378_1653461.jpgフルーツラインと鍛冶屋川の交差する地点から、西の方を見ると南西の方向から全体の景色の中に、窪んだ景色が何となく浮かびがる。ここまでは、切れてから二時間でたどり着くという。
  名倉方面が洪水の経験則の根拠は、明治23年の大水害だ。これも、時期的には、8月8日である。浸水家屋16棟耕地24町歩の水害があった。こういった水害が起きないように、荒川の川筋を変更した。それに伴って、そこに住んでいた庄野日の倉部落の人々が村林(河原屋敷)に移住して、がっちりとした堤防ができた。その堤防が、決壊するかどうかを占うのだ。
  ちなみに、平成10年に佐倉小学校が避難したときは、この堤防が切れたのだ。地域のお年よりは、「古老によれば……。」ということを信じていたので、予測した通りの出来事であったことを後で知った。
a0087378_17102622.jpg 明治43年の大洪水の時、学校を守ろうとした村人は、水の勢いを抑えるため校門に板を縛りつけたそうだが、水の勢いのほうが強くて、校門が折れてしまったという。その折れた校門が、水保小学校の入り口に横たわっている。
by shingen1948 | 2006-12-17 17:24 | ◎ 水 | Comments(0)