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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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飯坂街道沿いの太子堂(泉地区)

a0087378_17535345.jpg   この太子堂は、今は飯坂街道の拡張工事に伴い、直ぐに分かるようになったが、数年前、この太子堂を見つけたときは、店が並んでいる中に、入り口の表示だけがあるだけだった。
  その発見のとき、私は、聖徳太子の関係だと勘違いしていた。今回、よくみると弘法太師となっていた。弘法太師なら、密教だが、そんな雰囲気は感じなかった。

  聖徳太子と勘違いして、太子堂について聞きかじったので、そのことを記しておく。

  太子堂は、普通、職人の守り神としての聖徳太子が祭られ、それぞれの職人仲間が集まって、太子講が行われる。
  太子信仰は、太子没後(622年)から中世にかけて『日本書紀』(720年)・『聖徳太子伝略』(992年)を基本史料として太子信仰は、さまざまな伝説に彩られていくが、仏教を日本に定着させた功績を中心に、その超人的な行動への賛美が主たるものであったという。特に平安・鎌倉時代の宗祖達は太子へ寄せる思いが篤く、空海上人・親鸞上人・日蓮上人・一遍上人達は、太子の陵(叡福寺)や六角堂(聖徳太子が建てた)に籠り、いずれも霊感を得て、布教活動の転換点となったという。
  また、古代の寺は聖徳太子の発願寺が中心であり、これらの寺院を建てた職人は大陸からの渡来人であり、彼らは仏教や大陸文化全般に理解が深く、優れた人格者であった聖徳太子に親近感と尊崇の念を持ったことは想像に難くない。『日本書紀』によると太子が亡くなった時、諸王諸臣から百姓は悉く、愛児を失い慈父母を亡くしたように嘆き悲しみ、日月は輝きを失い、天地も崩れんばかりと記されているという。
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  聖徳太子と職人の守り神とのかかわりは、日本伝統の木造建築は太子の学問と実践に由来していることによる。建築に関連する職種にあるものは昔から太子像を家に祀り、太子信仰をよりどころとして技術を磨き、心の修行に励んできたという。その中でも、職人にとって最も大切な曲尺(かねじゃく)を発明したのが聖徳太子だということからの信仰が一般的だ。曲尺は平方根の答えが簡単に出せ、また、角度を分割できるなどさまざまな使用法があり、職人には重宝な道具である。しかし聖徳太子が曲尺を発明したという古い記録はなく、その根拠は薄いという。

  聖徳太子二歳像は、南無仏太子像ともいう。太子が二歳の時、東方に向かって「南無仏」と称えて合掌されると、その際、手から舎利(仏の骨)が出たという逸話がある。
by shingen1948 | 2006-12-16 18:00 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)