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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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大河内氏時代の玉井村を想像してみる

  ここ二週間、資料をもとにいろいろイメージを重ね合わせたことをもとにして、どこまで玉井の村を想像できたかを確かめてみる。時代を大河内氏の時代に戻し、そこに自分を重ねて想像をしながら村を眺めてみる。

まず、玉井舘から大名倉山を覗いてみる。
a0087378_4195277.jpg 大河内氏の気分で眺めれば、里山としての大名倉山は、かなり近くに存在感を持って迫ってくる。我が裏山の実感がわく。その山の姿を通して、会津を意識している。左手が本宮で、そこから大名倉山を回り込んで、自らの大将である会津の葦名氏へ続く街道がある。今よりも会津への街道は、大名倉山山頂近くを通っていたと考えられるので、意識の中で街道のイメージを引き寄せて想像する。

 次に、逆に大名倉山方面から、舘を通して村をみる。
a0087378_4285557.jpg 左手に玉井の集落があり、そちらへの街道を進むと、現在の相応寺あたりが意識できたであろう。しかし、当時は「安達太良神社」と「織井の清水」、「玉井の井戸」の意識だったはずだ。相応寺や薬師堂は意識から消し去ってイメージする。桜はそのままあってよい。
 その少し奥まで進むと自らが造った玉泉寺がある。更にそこから奥は、うっそうとした林の中の山入りとしての意識だろうか。手前の参道も森に囲まれている。参道は杉林がいいだろうか。寺の「いぐね」の役割の森がいい。
 その山入りの奥の亀山という所に、今の相応寺のような感じで薬師堂があり、修行僧で活気づく修験場となっていたのではないだろうか。

 さて、現在の景色との相違の考察だが、ここには、大河内氏がそれほど強い権力があった様子は伺えないし、また、近隣の権力の奪い合いに埋没た存在としてのイメージである。また、相応寺の経緯を見ても、大河内氏が、自分の権威を使って祠を移動させたとは思えない。むしろ寺に力があって、そちらの意志の力で、眉岳から亀山へ、亀山から南町へ移動しているようなのだ。しかも、1560年に亀山から現在地に移動しているのは、大河内氏が力を失いつつある時代と符合しており、寺の権威者が、そのことを意識しての移動だと考えてもよいだろう。集落の中心地に権威を示すために移動してきたと想定したとしてもあながち間違いでは無いような気もする。結果的に、舘からみれば、現在は大河内氏縁の寺玉泉寺は、その奥まったところに位置するようになったといったところだろうか。
 しかし、現在の視点からは、相応寺と玉泉寺が中心地に位置するようにイメージされる。これは、水田の開発による山入り部分の後退、学校、役場などの設置位置などの変遷などの村づくりの結果からであろうか。 
by shingen1948 | 2006-12-09 05:07 | ◎ 玉井村の史跡考 | Comments(0)