効率で、学校は再生するのだろうか
2006年 12月 07日
教育再生会議案の中で以下の項目が報じられている。
いじめや学力不足などの問題に対応するため、教員の資質向上が必要なので、民間の社会人や博士課程修了者を設定して、教員に登用する。
民間人を投入するよさは、何かという点である。 それは、もっと民間人なら効率よく実施するという期待であろう。もう一つは、違う視点が入るという点である。郵政民営化、国鉄の民営化は、前者であったろう。
学力不足の解消は、もっと民間人なら効率よく実施すると期待だろうか。
私立の学校は、そういう意味では、とっくに民間活力が入っている。
朝日新聞2006.12.4によれば、高校の必須科目履修漏れは、私立では、公立の二倍強である。別の資料では、保健体育等を削る等、公立では考えられない教科まで削っているという。
民間人が入れば新たな視点が入り、活性化するというのだろうか。
その期待は、目標が先鋭化し、その目標具現に数値目標が導入され、効率よく運営され、無駄と思えるものは削ればよいということだろうか。
いずれにしても、一番大切なのが学力で、それで順番をつけて、点数化できるようにする。その決められた物差しによって計られる能力によって、判断を推し進めれば、これからの時代に対応できる教育ということになりそうだ。
教育再生会議が目指す理想の教育、できの悪い先生も大変だが、子どものできの悪いお父さんお母さんも大変だ。互いに、駄目なやつは、学校から追い出すという話に、創造性はあるのだろうかと不安になる。
今までの義務教育者は、色々問題点はあったが、高等教育者に比べ、子どもに自己責任を押しつけず、自分の指導力を問い続ける姿勢を持ち続けるプライドであったように感じていた。本当は、能力がないかもしれないと思ったとしても、自分の指導力をかけて方策を考えるという醍醐味のようなものがあったようにみえた。
しかし、今度は、そうばかりは言っていられない時代になることを予感させる。きちんと、子ども側の自己責任部部分を明らかにし、子どもの側の責任部分を明らかにしないと、正しく評価して頂けなくなるだろうから。
まだ、調整するとはあるが、保護者や地域が、指導不足教員の排除目的で、評価を導入とのする考えがあるようだ。
それならば、保護者や地域が、厳密な評価の学習を位置付けるまで生じる。保護者や地域は、多面的で多様な観察に基づく評価を心がける努力をする義務をおうことになるからだ。そうでなければ、一般の教師は、レッテルを貼られないように、できるだけ本音を避けるか、子どもの自己責任部分を明らかにしようと必死になるようになるという弊害が起きることは目に見えている。
子どもとゆっくり語らったり、遊んだり、ゆっくりと給食を食べたりする教育を保障していきたいという考えは、もう古い時代感覚なのだろうか。