玉井氏が隆盛の頃
2006年 12月 06日
1542年(天文11年)に、稙宗が、三男実元の上杉定実(越後国守護職)への嗣を図ったが、反対する長男晴宗は稙宗を西山城に幽閉するということが起きた。これが原因で混乱は、伊達家だけでなく周辺の諸氏を巻き込む。
しかし、伊達家の混乱の影響だけでなく、あちこちで、権力闘争が頻繁に行われている。そういう時代である。近所の城「百目木城」を例にとれば以下のようなことである。
百目木城主の石川氏が、1568年に小浜城主の大内備前定綱氏と組んで、主家の石橋氏を滅ぼして、三春の田村氏に着く。その大内氏が、1583年には、二本松の畠山氏の援助を受けて、田村氏配下の石川氏を攻めたりしている。
この大内氏も2年後には、伊達政宗に滅ぼされ、伊達政宗に味方した石川氏が小手森城築館城を加増されたりしている。
伊達家の混乱は、結果的には晴宗が勝利し、稙宗は丸森へ隠居、晴宗は家督となり居城を西山城から米沢城に移し、講話の条件とて西山城を破却した。 安達信夫郡は、大森城に弟実元と、梁川城に宗清を城代として置いて、葦名・畠山・相馬の諸氏に供えることになる。
この間の玉井氏の様子を、「大玉村水利事業史」で確かめる。第2節二本松藩政下の村「玉井村」に、以下のように記述されている。
天文16年(1547年)2月、二本松畠山義氏は田村隆顕、石橋尚義とともに安積郡を攻め、玉井氏は没落した。
天正16年(1588年)三月、伊達勢の攻撃を受け、「玉井日向守為始、三百余人討ち取り候」とあるように館は滅び、村は伊達の支配下となった。
この記述の間に、弘治元年(1555年)初代玉井氏の大河内日向守光盛が亡くなったようだ。
初代玉井氏の大河内日向守光盛が亡くなる前は、この地周囲の群雄割拠の状態で、玉井氏は没落していったと考えてよいと思う。その没落の時代に、大河内日向守光盛氏は亡くなってしまう。そして、伊達政宗と葦名の本格的な攻防の中で、伊達政宗が安達一体を荒れ狂う中、玉井の館は落ちたのであろうと思われるようである。