地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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伊達家騒動と玉井権威者


 「大玉村観光協会[大玉まるごと百選]」では、玉泉寺の記述で以下のように記述する。
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 大河内日向守光盛は、1532年(天文年間)会津葦名に仕え玉井郷を領し、玉井舘に玉井城を築き、居城した。1555年(弘治元年)伊達政宗が安達一帯を占領したときの戦火で、没する。墓は玉泉寺墓地入り口にある。(「大玉村史」より)

 そこで、伊達正宗の動きと照らし合わせてみる。
 すると、伊達・葦名の本格的な抗争は1573年から1592年のことである。概要は次のようになる。

 天正13年に大内定綱の塩松城を攻め、定綱は葦名を頼っていく。また、同年10月政宗の父がニ本松城主畠山に捕らえられ、阿武隈河畔で非業の最後をとげる。翌天正14年政宗は、二本松城を落とし、畠山氏を滅亡させる。こうして、伊達政宗が安達郡を手にする。

 大河内日向守光盛氏が活躍した時代と伊達家を照らし合わせて見る。
 すると、伊達家では十四代稙宗(1523~1555)の時代が中心で、長男の晴宗へ家督が移動する時代でもあるという時代になる。

 稙宗は、1523年(大永3年)ごろ、室町幕府から陸奥国守護職に任命されている。その頃の所領は本領である伊達信夫二郡から山形南部と宮城県中部まで及んでいたという。
 1542年(天文11年)に稙宗は、三男実元の上杉定実(越後国守護職)への入嗣を図ったが、反対する長男晴宗は稙宗を西山城に幽閉した。
 これが誘引となって、天文の乱という、伊達家だけでなく周辺の諸氏を巻き込んだ混乱になったが、1548年(天文17年)足利義輝の仲介で集結する。晴宗が勝利し、稙宗は丸森へ隠居、晴宗は家督となり居城を西山城から米沢城に移し、講話の条件とて西山城を破却した。 安達信夫郡は、大森城に弟実元と、梁川城に宗清を城代として置いて、葦名・畠山・相馬の諸氏に供えた。

 大河内日向守光盛氏が、没するのは、この混乱がとりあえず収束する時代である。したがって、大河内日向守光盛氏が活躍するのは、この混乱の時代だったと考えるのが自然だと思う。
by shingen1948 | 2006-12-05 05:23 | ◎ 玉井村の史跡考 | Comments(0)