人気ブログランキング | 話題のタグを見る

地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31

大名倉山に薫る会津への道

 大名倉山に、村を見渡せる里山として精神的な基盤を求めていたが、もう一つ会津への憧れ道として村から眺めたかもしれない。「山形・宮城・福島の城郭」新人物往来社刊の321番の館は瀬戸川館の位置説明で、以下のように位置説明されている。
 
瀬戸川館は、本宮町の大名倉山から高日向の丘陵が本宮゜盆地に落ち込む舌状地に位置し、往昔は会津街道がこの丘陵から本宮の町に入っていたとされているが、……。本宮城の出城として、会津街道の要衝の守りのため、築城されたといわれている。

 大名倉山は、村のどこからも良く見える山だが、この記述からこの大名倉山は、会津への道でもあったことが分かる。

 なお、この館は、天正13年の人取り橋の合戦で脚光を浴びたところだ。この時、この城には、伊達成実が守っていた。また、物見櫓と烽火場が検出されたことが頷ける位置で、正宗が本陣を置いた日輪寺に近く、本宮城のものぞまれる要衝の地である。伊達家の前線基地高倉城が指呼の間にある。更に、ここからは仙道を東にのぞむことができる位置である。この時の反正宗勢力は、葦名・佐竹・岩代・白川・石川・須賀川で、畠山氏を擁護するため連合を組んでいた。

 この戦いで、連合軍が突然陣を払って引き上げたとのことであるが、会津に事件があったからと伝えられている。多分、地区の人々は、この大名倉山から、会津に戻る後姿を見送ったのであろうか。
 
by shingen1948 | 2006-12-03 08:16 | ◎ 玉井村の史跡考 | Comments(0)