地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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玉井の権力者と会津の蘆名氏

 「玉泉寺」の記述によれば 、玉井近郊の権力者として「大河内日向守光盛」 の紹介があり、彼は、会津の蘆名氏の家来ということである。そこで、会津の蘆名氏の状況と、大河内日向守光盛氏の状況を重ね合わせて記述してみる。
 大河内日向守光盛氏については、「大玉村観光協会[大玉まるごと百選]」から、会津の蘆名氏については、「会津方部高等学校地理歴史・公民(社会科)研究会[資料が語る会津乃歴史]」から要約し、年代順に並べてみた。
 玉井の地域をメインに考えたいので、大河内日向守光盛氏関係の記述を太字にした。

1466年(文正1)頃には、蘆名の仙道(中通り)への進出が本格化していた。蘆名盛高は、この時期、安子ヶ島や岩瀬郡へ出兵している。蘆名は、領内でも内乱を克服し、戦国大名として成長していった。
 そして、盛氏の代には、伊達氏や結城氏と政略結婚などの外交手段も行使し、会津から越後の一部、仙道の安積郡岩瀬郡を手中に収め、全盛時代になっていた。

1529年(享禄2年) 玉泉寺 大河内日向守光盛開基 利宵厳益和尚開山
1532年(天文年間)大河内日向守光盛は、会津葦名に仕え玉井郷を領し、玉井舘に玉井城を築き、居城した。
1555年(弘治元年)伊達政宗が安達一帯を占領したときの戦火で、没する。墓は玉泉寺墓地入り口にある。(「大玉村史」より)


1584年(天正12)に盛氏から引き継いだ盛隆は、籠臣に切り殺される。
1586年(天正14)に盛隆の子亀若丸も3歳で亡くなるなどの試練の時を迎えた。
 後継ぎをめぐって、伊達政宗の弟を押す派と常陸大名の佐竹氏の次男を押す派に分かれた。1587年(天正15)に白川結城義親の養子義広が黒川に入城した。

 伊達政宗は、会津への進出を狙ってたが、佐竹氏から後継ぎを迎えたことで対立は決定的になった。
1589年(天正17)政宗は猪苗代盛国を内応させ6月4日に猪苗代に入城した。6月5日の早朝から磐梯山南麓で繰り広げられた摺上原の戦いに敗れた蘆名義広は黒川城に逃れたが、四天の宿老たちに追われて白河を経て実家の佐竹のもとに走り蘆名は事実上滅亡した。

 伊達政宗が、周辺へ勢力を延ばし、会津への進出を狙うようになる状況については、残虐な戦いぶりと相手の悲劇として語り継がれていることは多い。
by shingen1948 | 2006-12-02 17:09 | ◎ 玉井村の史跡考 | Comments(0)