地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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玉井中心意志としての相応寺

 大玉村のフィールドワーク資料の観点から、村の共同意識を確認する。
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 神社仏閣の歴史の読み取りからは、村の中心地として相応寺が意識されていると感じる。いくつかの経緯をたどりながらも、相応寺境内に神々を集中させようという意図を感じるのだ。実際には、織井の井戸の脇にあった祠もこの地に移動している。この地を中心にして整備充実しようという村の共同体としての意識を読み取ることができるのだ。

 村の共同体の意識の中には、ここに住む人々や権威者のほかに、修験者の還俗の問題がありそうに感じる。修験者は農民となり、寺院と鐘楼を残す。そんな意識も働いたのではなかろうか。それは、中心となる薬師堂移動から、記載はどこにもなさそうだが推定してもよいのではないだろうか。
 ただ、この相応寺境内移動前の薬師堂位置は、現在「戦死三十一人墓」のあるあたりだ。ここは、山入である。山入と玉井村との共同の意志も働いていると思う。この地を中心に、山入と玉井村の意志が何となく手を結ぶという共同意志を感じるのだ。

 戊辰戦争の資料で、「玉井に集結」という表現を見つけたとき、地点を特定できないのだが、まずは、この相応寺境内を推定することが正論であろうということだと思う。

 この相応寺境内を中心地に据え、この地の権力者の菩提樹玉泉寺を心のよりどころにする。そういった広い意味での玉井共同体の意志の上に、明治の国家神道政策を受け入れて、玉井神社を整備する中心地に加えたというところだろうかと推定した。
by shingen1948 | 2006-12-02 05:53 | ◎ 玉井村の史跡考 | Comments(0)