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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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玉井の神々

 先日は、福島の信夫山の「心の神々」のようすについて資料をもとに確認した。その観点から、安達太良の里山「山入」の神々を確認してみる。そのため、現在の神社仏閣等の歴史を確認し、この地域の心の神々を想像する資料を探した。大玉村観光協会「大玉まるごと百選」がいいと思った。この資料をもとに、神社仏閣の歴史の記述から、移動の経緯等を中心に確認する。そうすると、もともとの神々の位置が分かる。そこに、安置されたものや言い伝えを合わせて確認して想像をすれば、地域の神々の認識に迫ることができるかも知れないと思った。
 
 この資料で、この地域の全体にさっと目を通す。すると、次のような概要を感じる。
 
 玉泉寺が、この地の領主の菩提樹であるようだ。この領主は、会津葦名のとのかかわりがある人物で、舘に住み、1555年(弘治元年)伊達政宗が安達一帯を占領したときの戦火で、没したとのことのようである。
 その他の神社仏閣は、いろいろな神々の変遷があり、今の神社仏閣としてかくりつしたようだということである。

 玉井を中心にしてみれば、大きな仏閣は、相応寺であろうか。この神々について経緯の記述を探してみると以下のようである。

 807年(大同2年)眉岳(前ケ岳)に堂宇を建てて如来を安置し、安達太良山相応寺と号した(木村完三「安達太良山」より)とある。この地に650年あったが、度重なる火災にあったとのこと。
 1452(宝歴4年)玉井亀山に再建され、修験堂当山派の拠点になった。この地に100年あった。
1560年(永禄3年)現在地南町に移された。

 この記述から、本堂の脇にある薬師堂から、「地域の神々」のにおいを感じ取ることができるようだと分かる。上記からは、更に山岳信仰に関わる神々が感じられる。 

 前ケ岳は、里山ではあるが、奥深い山々とのつながりある意識的にはやや深めの里山であり、修験者の存在を感じさせる。現在の遠藤ケ瀧の行事に残るイメージである。
 変遷は、薬師堂の「前ケ岳」→「亀山」→「南町」へ移動とのことである。
 この前ケ岳とあるのは、本山の前ケ岳だろうか、それとも、玉井の前ケ岳だろうか。いずれにしても、本山の前ケ岳に「神々の精霊」を感じた薬師というイメージの精霊をここで感じればいいのだろうか。

 記述によれば、次のような神々だとある。
 薬師堂内の薬師如来は、亀山の元相応寺から移った岳山湯前薬師とのこと。薬師如来の護衛として配された12神將は、一体は1481年(文明13年)江戸時代に制作されたものが、12体とのことである。
 
 信夫山の護国神社に相当する新しい神々は、午房内の玉井神社のようである。
 明治初期に、国家神道政策が荒れ狂い神仏分離が厳しく実施されたことに伴う変化であることは明らかである。ここからも、心の神々から権威の神々への変化を読み取る記述を探すと、以下の記述がされている。 

 大名倉山中腹の愛宕神社と相応寺境内に社殿のあった安達太良明神を合祀して、明治12年に建立された神社。現在玉井を鎮守する神社。

 ここから、心の神々は、国家神道政策の前には、大名倉山にもいたし、相応寺境内にも別の神がいたことが分かる。やはり、大名倉山は、里山としてのこの地のシンボル的存在だと感じる。また、相応寺の場所も現在の神々とは別の安達太良の山か川か里かは分からないが、重要な精霊の住む地であったと感じる。 

 その他の玉井の仏閣に、小菅の正福寺がある。ここの経緯は、以下のように記述されている。
 
 新義真言宗、城守山 正福寺と称する。
 1558年(永禄元年)山城の地に開創
 1708年(宝永に年)現在地に再興
 1803年(享和3年)火災で焼失、同年再建。
 本尊は、地蔵菩薩 脇仏は不動尊 文覚上人(遠藤盛遠)が背負って歩いたお不動様も安置。
 
 八坂神社とここの神々は、玉井とは別の山入地域の精霊であり、山入村の鎮守だろうか。
by shingen1948 | 2006-11-30 20:33 | ◎ 玉井村の史跡考 | Comments(0)