信夫山の神々の変質
2006年 11月 26日
明治初期に、国家神道政策が荒れ狂い神仏分離が厳しく実施されたことに伴う変化について紹介されていた。
羽黒大権現は神社とされ、六供の修験者は還俗し農民となり、仁王門と鐘楼が取り壊されたこと。
本地仏のこもかぶり観音は、清明町の真淨院に移されてしまったこと。その代わりに、明治12年に戊辰戦争の西軍側の戦没者を祀り招魂社が創設され、会津落城の日を祭日としてお祝いしていたこと。それが、昭和14年に県の護国神社になって昇格したこと。
五十沢の滝不動が村社瀧洞神社になって神格化したこと
黒沼社の裏手に東郷山乃木庵修養道場として、軍国主義の一翼を担うことになったのは、板倉神社の近くの武徳殿が昭和13年に移築されたものであること。
現在の信夫山の神々の姿は、「権威のための神々」へ変質した姿である。ここから、それらの記述に基づいて、「心の神々」の姿を推定することになる。
安達太良の里、玉井でも、村社である玉井神社は、複数の神社が合わさっているという話を聞くし、その他の神社の変遷についても聞いている。村の「心の神々」は、村の共同の意志での神格化作業の現れであり、村の元々の意志を知りたいときには、それらの原型を知ることが大切になる。
神々の元の場所の特定と、その土地の特色や元の神の呼び名について確定し、記録しておくことの大切さを感じている。