地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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会津への道としての山入のみち利用

 山入から母成峠を経由して会津へ入る道として利用されたのは、新政府軍の会津攻めに使われたのが有名である。この道は、それ以前にも伊達政宗の会津攻めに使われていた。当時会津を治めていたのは蘆名氏である。会津方部高等学校地理歴史・公民(社会科)研究会「資料が語る会津乃歴史」で確認すると、以下のようである。

 1466(文正1)頃には、蘆名の仙道(中通り)への進出が本格化していた。蘆名盛高は、この時期、安子ヶ島や岩瀬郡へ出兵している。蘆名は、領内でも内乱を克服し、戦国大名として成長していった。
 そして、盛氏の代には、伊達氏や結城氏と政略結婚などの外交手段も行使し、会津から越後の一部、仙道の安積郡岩瀬郡を手中に収め、全盛時代になっていた。
 しかし、1584年(天正12)に盛氏から引き継いだ盛隆は、籠臣に切り殺され、その子亀若丸も1586(天正14)に3歳で亡くなるなどの試練の時を迎えた。
 後継ぎをめぐって、伊達政宗の弟を押す派と常陸大名の佐竹氏の次男を押す派に分かれたが、結局、白川結城義親の養子義広が1587(天正15)に黒川に入城した。

 伊達政宗は、会津への進出を狙ってたが、佐竹氏から後継ぎを迎えたことで対立は決定的になった。政宗は猪苗代盛国を内応させ、1589年(天正17)6月4日猪苗代に入城した。6月5日の早朝から磐梯山南麓で繰り広げられた摺上原の戦いに敗れた蘆名義広は黒川城に逃れたが、四天の宿老たちに追われて白河を経て実家の佐竹のもとに走り蘆名は事実上滅亡した。

 この蘆名氏を攻めるために、伊達政宗が通った道が、山入経由母成峠の道とのことである。



 なお、蘆名氏は、相模国蘆名郡(横須賀市)を本貫の地とした三浦氏の一族といわれている。三浦一族は1189(文治5)の奥州合戦で活躍し、その功により一族の佐原氏が会津の地を与えられたという。佐原氏は1247(宝治1)の宝治合戦以降本格的に会津に進出し、鎌倉幕府の北条時頼側についた佐原光盛が蘆名氏を名乗り、黒川に本拠を置き、会津郡門田荘を領したとの事である。文献で確認できる南北朝時代は、北朝の武将として活躍し、室町期には会津の守護を称して本領以外にも支配を拡大した。

 この後、会津は、戊辰戦争を迎えるまで、以下のような概略の経過をたどっている。

 1590天正18小田原の北条氏を倒した豊臣秀吉は、黒川に入り、奥州の大名の処分を決めた。(奥州仕置)
 会津は、蒲生氏郷に与えられた。其の後、領主は上杉、また蒲生、加藤と変わる。1643年加藤氏に変わって出羽山形より保科正之が23万石で会津入りし、会津藩が成立する。容保(かたもり)まで9代に渡って在封し、幕末を迎える。
 加藤氏時代に荒廃しきった農村を正之の藩政確立期に復興が試みられる。元禄期までには、本百姓の展開により農村の発展を見た。
 しかし、元禄期以降は、藩財政の窮乏が顕著となり本百姓の崩壊を見る。
天明の飢饉後に田中玄宰が主導して寛政の改革は、一定の成果はあったが根本的解決には至らなかった。
 また、樺太警備・三浦半島警備・房総半島警備品川沖お台場警備を命じられ、また、文久の改革で京都守護職に任じられ公武合体派の第一線となる。
by shingen1948 | 2006-10-26 06:00 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)