地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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戊辰戦争の怨念と会津の人々の感性

 戊辰戦争の怨念についての本を読んでいて、戊辰戦争当時、会津に住む農民等の人々は、本当はどんな風に戊辰戦争をみているのかを知りたいと思っていた。
  県の図書館を覗いていたら、会津方部高等学校地理歴史・公民科(社会科)研究会発行の「資料が語る会津の歴史」の中に参考になる記述をみつけた。

 資料集の「戊辰戦争」の項を、次のように締めくくっている。

 鳥羽伏見の戦い以来、会津藩の戦死者は2977人に増え、若松の城下の三分の二が焼け野原になった。新政府軍の略奪や暴行も多く、戦争に巻き込まれた農民や町人などにも犠牲者が出た。会津藩は塩川村に進撃していた米沢藩を通して土佐藩に降伏を伝え、9月22日には若松城が開城した。

 そして、英国人医師ウイリアム・ウイリスの「会津戦争従軍記」を資料として添付している。
 その資料では、まず、若松市内の惨状を描写する。それから、会津候父子と家老が江戸に向かうときの様子が描写されている。それは、以下のような概略のようなのだ。

 会津候と息子は立派な駕籠が準備されたが、家老以下の家来は、粗末な駕籠であったり、徒歩であったり、丸腰でまったくうらぶれて悄然たるありさまだったという。また、見送りは、護衛隊を除けば、十数名もいなかったという。
 いたるところで見送る人々は、武士階級の者以外は、冷淡、無関心で、憐憫の情は少しも見いだせなかったともいう。

 残忍な戦争を惹き起こした上、敗北の際には切腹もしなかったため、尊敬を受ける資格は、すべて喪失したという一般的な世評とを記述した後、藩が人民に強制した借款、家並み、身なり、小柄で貧弱な体格などの事実をあげ、会津藩政の過酷さと腐敗ぶりについて記載する。そして、守護職はそれらの犠牲の上にあったと締めくくる。

 もう一つの資料として、山川出版社「板倉退助君伝」から、「板垣退助の見た会津藩の滅亡」と題して、以下の概略について記載している。

   会津藩は天下屈指の雄藩で、政善に民富む、もし上下心を一つにし、勠力(りくりょく)をもって国に尽くさば、わが三千未満の官軍如何ぞ容易にこれを降さんや
(以下略)

   あにはからん一般の人民は妻子を伴い家財を携えてことごとくに遁逃するだけでなく、手 足の用をなして、賃金をむさぼって恬として恥じざるにいたる。

  退助は、それを自戒の事実として心に留めているのだ。楽を共にしないものは、憂いも共にできない。国が亡ぶときに、わずか三千の氏族しか殉じられなかったことを。

 今、会津での薩長との怨念劇は、権力者である士族の感覚でしかないのではといったら、言い過ぎなのだろうか。新政府軍の残虐に対する怨念はその通りだろうが、同じように会津候に対しても尊敬の念は無いのが正常なのだと。
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by shingen1948 | 2006-10-24 20:33 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(0)