人気ブログランキング |

地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

もう一つの母成峠の戦い


 塩谷七重郎氏の「大玉村山入の戦」に記載されている「もう一つの母成峠の戦い」より、二本松城が落城する以前の、新政府軍と、奥羽諸藩の関係が確認できる。



 会津と庄内藩は、慶応四年正月三から五日の鳥羽伏見の戦いで、徳川方が惨敗しただけでなく、朝敵の汚名をきせられた。そして、明治維新政府は、朝敵とした会津と庄内藩を討伐するため、奥羽鎮撫使を仙台に派遣したのだ。三月十八日には、海路仙台湾に到着し、奥羽諸藩に両藩を討てと命令した。四月十二日、鎮撫使本営を岩沼に移し、沢・大山が庄内討伐を、醍醐・世羅が会津討伐を受け持つことになった。
 会津藩を討つことになった世羅は、四月十五日には北町の金沢屋を宿舎に、阿武隈川河畔の長楽寺を軍事局にし仙台藩に会津を討つように督促した。

 督促された仙台藩は、四月十八日の小峰の戦いという戦いでは、事前に仙台藩と会津藩の武将が山中で密かに出会い、小峰を中心に、空砲で撃ち合って引き上げたとのことである。閏四月二日の中山峠(楊枝峠)、閏四月三日御霊櫃峠でも会津藩陣営を仙台藩が偽戦で攻撃するように見せかけていた。

 そして、もう一つの母成峠の戦いになるのだが、意識的には上記のままである。ただ、布陣としては、会津落城にいたる「母成峠の戦い」と同じである。

 閏四月四日、仙台藩は石筵村に本陣を置き、会津藩は、母成峠の頂上に本陣を置いた。東ソネ、中軍山、八幡山には前進陣地を置き、更に前方の萩岡台地に前衛基地を設けた。
 萩岡を仙台藩が攻撃すると、会津藩は戦わずに母成峠の本営に退却、仙台藩は、無人の萩岡台地を焼き払って石筵の本陣に引き返したとのことである。
by shingen1948 | 2006-10-17 21:37 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(0)