山入村の戦い~母成峠の戦い前夜
2006年 10月 16日
福島周辺に散在していた同盟軍は、8月17日二本松城を奪還しようとする。福島方面から奥羽街道沿いに進んだ同盟軍は、二本柳で待ち構えていた西軍の反撃で、退却する。母成峠防衛軍は、16日の夕方に、二本松藩兵の案内で峠を下ったが、道を間違えて夜通し歩いて17日に大玉にたどり着くが、そのまま母成峠に引き返す。次の攻撃予定日を20日とし、19日に山入村に進んで泊まる。
お互いに敵の作戦を知っていたわけではないが、偶然、西軍の母成峠攻撃は21日と決まり、大玉村に20日二本松宿営隊と本宮宿営隊が作戦計画によって部隊を編成して玉井村に泊まる。
先に山入村に入った東軍は有利な手志子森に大砲一門を有する伝習隊、西の内に仙台会津藩兵、五の神部落に二本松藩兵が陣取る。
西軍は、玉井村より山入方面に進み、黒澤付近で、伝習隊の大砲と、各隊の銃撃に合って、退却する。そして、大砲隊を八坂神社まで進出し、伝習隊陣地を砲撃する。その間に、安達太良川と寺沢川の流れに沿って歩兵部隊が潜伏して進み、黒澤付近で、白兵戦となる。
伝習隊は手志森に退却した後、母成峠へ、各藩も母成峠に退却する。
西軍は、夕闇が迫ったこと、21日の母成峠攻撃に備えて、警備兵若干を山入村に残し、本体は、玉井村まで、戻る。
この戦いで、西軍の戦死者4名、負傷者6名。臨時野戦病院となった玉泉寺に収容される。
東軍の戦死者43名、多数の負傷者。戦場に放置。見かねた村人が手当てする。黒澤地区の権現目山林中に穴を堀り、近くの31人の遺体を埋葬した。其の後、明治27年村民の有志が石碑を建てる。