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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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戊辰戦争「山入村の戦い」の論文を見つけた

 今日、県立図書館で、山入村の戦いの論文をみつけた。載っていたのは、猪苗代地方史研究会の会報第33集「猪苗代町の道標」である。その中に塩谷重七郎氏の「大玉村山入村の戦」という論文である。
 その中で、山入村の戦いは、複数回であることや詳細な山入村と母成峠の戦いの考察、そして、大玉村にある戦士三十一人墓の石碑を建てた経緯について詳しく記述されていた。
 精読して認識を深めたいとの思いで、その雑誌を借りてきた。
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 私の今までの、戊辰戦争と山入村とのかかわりについては、以下のような認識である。

会津藩と新政府軍とは、1868年8月以降激戦を展開し、9月22日には若松城を開き降伏することになる。この会津攻撃の火蓋を切った場所が母成峠である。
 二本松を制覇した新政府軍は、慶応4年8月19日に、石筵口よりの会津攻めを決めた。
 8月20日には、全軍を率いて、朝八時二本松を出発して、玉ノ井村に到着する。部隊を三隊に分けて、一隊を本宮にとどまり、一隊を山入村へ進める。 ここで、二本松城を奪還しようとする隊と遭遇し交戦になるが、圧倒する。
 8月21日には、隊を四つにわけ、伊達路・中央の石筵口・西側の間道・中山口に進軍し、会津藩兵を圧倒する。これが、会津戦の悲劇の始まりである。

 しかし、山入村に入村する東軍の作戦が、西軍より一日早かったが、互いに作戦を知っていたわけではなく、偶然の出会いであったことなど、複雑な要素があったようだし、31人の墓に埋葬された人は、43名の東軍戦死者の誰だかは分からないなど、複雑に入り組んだ要素を含めて、自分の認識を深めてみたいと思っている。
by shingen1948 | 2006-10-15 17:11 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(0)