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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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叫びを直視したら

Excite エキサイト : 社会ニュース

毎日新聞2006.10.17の「叫びからなぜ目をそむけた」との社説を目にした。

 これは、自殺を図った少女が、いじめを苦にしての自殺だったとされることに対して、市教委と学校の対応がよくないとして批判した記事である。

 この事件は、昨年9月に発生した。北海道滝川市で6年生の少女が教室で首をつって自殺をはかったのだ。そして、少女は今年1月に意識不明のまま他界した。
 今年の10月1日に報道でいじめが原因であると思われる遺書の内容を明らかにしたのに、教育委員会は、直ぐにいじめを認めなかった。この黙殺と、全国から殺到した批判の電話とメールがあって、いじめがあったととの見解に変えたと関係機関を批判したものだ。
 
 その主張は、学校は、遺族が最も知りたいことを徹底的に調査し、説明することと自己検証の要求である。そして、今回の失敗の過程を、全国の学校現場で、共通の教訓として生かせという要求もしている。

 もっともである。いじめは許されるべきことではないことは明らかである。しかし、この主張の通りにすることが、本質だとは考えにくい。これも悲惨を生む可能性があると思うからた。

 この主張どおりにするには、遺書にしたがって、いじめをしたとされる加害者と周りの者たちを徹底して疑うことを出発点にすることが求められる。今の世相の状態で、彼らに言い訳は許されない。そして、お前が原因で人が死んだのだと徹底して指導することが求められることにもなる。
 そして、その通りに調査し公表となる。いじめをしたものは○〇で、本人は○○の考えでやったと徹底して調査によって白状させた結果だと、教育関係者が、遺族とマスコミに公表し、謝罪することになる。それからが自己検証となる。

 しかし、そうだろうか。逆ではないかと思うのだ。いじめが発生して、新たな展開に発展すれば、どんな対応をしても悲惨を生むのだと思うからだ。
 ここに存在する本当の「失敗」は、マスコミが提示した遺書に対する対応のまずさではないと思う。いじめがあったとするならば、その発見が遅れたことが失敗なのである。ここに自己検証が必要なのだと思う。そして、なかなか発見しにくいいじめの本質を見極める手段を何とか確立しようとする意気込みが大切なのだと思う。それが、教育現場に要求される自己検証の本質だと思うのだ。

 他者が要求した自己検証をしている間に、世相を左右するマスメディアの自己過信の検討も同時に進行することがあって、初めて本質が見えてくるのではないかとも思うのだ。



 更にこのままいけば、別の倫理観が形成されてしまわないかという危惧がある。

 日本人は、無意識ではあっても、死をもって訴えることに肯定観を持っている。そういった文化を子どもたちに教えていることにならないだろうか。
 ここで、大人たちは立ち止まることが大切なのだと思うのだ。いかなる理由があろうとも死を持って自己主張することを否定する文化形成の努力をすべきだと思う。

 死にたいぐらいのことだったことは分かる。また、子どもを失った怒りは想像を絶するであろう。そういった悲しさを伝えることはとても大切である。しかし、死をもって訴えることを善しとしてしまう文化を形成したら、苦しくなったら死ねば分かってもらえるということを教えていることになる。

 今、大人社会も、孤立感がみなぎっている社会である。そういう人たちが自分を分かってもらいたいと思えば、死を持って訴える方法があることを示すことにならないか。

 そういう危険性をもって世論を動かしているというマスメディアの自覚と配慮があって、その上で、冷静に陰湿ないじめ問題に立ち向かう提案がなければ、真の解決にはならないと思う。
by shingen1948 | 2006-10-08 14:06 | ☆ 教育話題 | Comments(0)