朝ドラ「エール」散歩資料(福島)⑨~古関裕而が通う学校②
2020年 07月 29日
福島町立福島尋常高等小学校の校舎改築を検討する中で、男子部と女子部の分離と共に上級学校の設置が検討され、男子部に商業補習学校が附設され、女子部に高等女学校を併設する計画が立てられたということのようだ。
これは町の有力者の意見が反映される結果のようだが、その背景に町予算があるという。当時、町事業費の不足は町の有力者の有志金に頼ってきているということがあるらしい。
「 わが国産業化と実業教育(羽田 新)」の「事例研究:福島商業学校の設立と発展」が掲げる有力者を確認すると、町有力者21名中17人が商人で、しかもその中の10人が生糸商のようだ。ちなみに他の職業は、農業2名、士族代言人1名だけということだ。
商業補習学校が附設は、明治30年臨時町会で決議されるようだが、設立趣旨は、「(教育の完全を期せんとするが、)当町は本県商業地の中心にして商業は年を追うて繁雑の域に進み学齢児童の小学校を卒業し他の専門学科を修めんとし他府県に修業させるものは多く身を商業界に投ずるを以って今日小学校に商業補習科を設くるの必要を感する……」ということ。
この商業補習学校を商業学校へ転換する機会は、市政施工運動と絡むようだ。
明治31年には福島中学校が設立されるが、商家を中心とした町民からは、子弟の教育上、福島中学校に対応するレベルの商業学校の設置が待望されていたという。
それで、明治40年の市政施工に合わせて市立商業学校(乙種)に昇格させ、校舎も寄宿舎だったところに建設されたという。
そして、翌明治41年には、腰浜西谷地新校舎を落成したということだ。
更に、大正7年には甲種の商業学校に昇格し、大正11年には県立に移管されたということだ。
古関裕而氏は、その県立に移管されたばかりの甲種の商業学校に入学するということだ。
朝ドラ「エール」で、当時福島の商家の子弟は商業学校に入学するのが普通だったと解説されるその背景のようなものを確認してみた。