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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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神霊の学者石塚直太郎氏について⑧

 前回まで石塚氏との関りから、宮崎県の神代三山陵探索に係る確認を進めてきた。しかし、実際には、その宮城県側の探索の前に、鹿児島県側の探索があるようだ。
 「みやざきの神話と伝承101」で、そのあたりの概要を確認する。 http://www.pref.miyazaki.lg.jp/contents/org/chiiki/seikatu/miyazaki101/shinwa_densho/index.html

 そのページの「可愛山陵」の項の解説に、明治の初期に神代三山陵の治定作業は国策となった後の経緯が紹介される。
 まずは、明治7年(1874)に維新政府は三陵とも鹿児島県内に治定する。これは、維新政府内の薩摩藩が大きな政治力を持っていたこととのかかわりであることを指摘する。
 旧薩摩藩の学者の主張を根拠に同県内に定めたという事情だとのことだ。

 当然、その後に南九州各地に伝わる3代の神陵の伝承地についての活発な反論が出されることになったとのことだ。
 それで、遂にその反論に逆うことができずに、次に、同29(1896)年に、北川町俵野可愛が「御陵伝承地」に、西都市西都原が「御陵墓参考地」に定め直されたととのことだ。
 同ページでは、明治16年(1883)当時の宮内省職員2人の記録「日向埃山陵」(宮内庁書陵部所蔵)を引いて、その反論の正当性を示す。

 「天孫御陵発見始末」には、その北川町俵野可愛の「瓊々杵尊(ニニギノミコト)御陵伝承地」が写真で紹介される。その下には、以下のような解説。
神霊の学者石塚直太郎氏について⑧_a0087378_1674362.jpg
 「伝説御陵墓は延岡町坑外北川村大字俵野地内可愛三麓に在り宮内省の所管なり。
 向て右端小さき二枚の建札のあるは夏田梅太郎なる人去る大正9年1月霊夢を見て可愛岳山中字屋敷の窪より持下ろしたる御手洗鉢様の石なり」

 夏田梅太郎なる人も、その行動も確認できない。ただ、可愛岳山中より石を持下ろすということだが、次の情報がそのことと関わるのかもしれないとも思う。
 この可愛岳(エノタケ)山頂にある巨石(三本石)の辺りが、ホノニニギノミコトの陵墓という説があるようで、その説に従うとその山麓にあるこの地はホノニニギノミコトを祀る処という見え方になるようだ。

 前回まで整理した宮崎県の神代三山陵探索前に、これ等の事があったということだ。
 有吉宮城県知事は、その同じ時期に天孫瓊々杵命とその紀木花咲耶姫の御陵墓参考地とされた男狭穂・女狭穂の二大古墳のある西都市西都原古墳群の調査を依頼するが、そこには、あくまでも参考地との不本意名目がつく状況の払しょくをも願っていたのではないかと想像する。
 しかし、西都原台地のある西都原古墳の調査・発掘の結果は、日向神代史実証という思惑から外れたものになったということだ。
 これらの事が、石塚氏の延岡遠征要請に繋がったという事になるようだ。
by shingen1948 | 2020-03-04 16:09 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)