人気ブログランキング | 話題のタグを見る

地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31

神霊の学者石塚直太郎氏について⑥

 今回は、「天孫御陵発見始末」で「鳥居龍蔵と日向」で確認できた事がどのように記されるかを確認する。

 「鳥居龍蔵と日向」で、「日向延岡の神代聖跡顕彰事業の推進役の中心人物とされる村上某氏」というのは、「天孫御陵発見始末」では村上兄一氏とされる方なのだろうと思う。
 同誌の「予が神代史跡調査に従ふに至った経路」の項で、石塚氏がこの村上氏に出会った経緯や、請われて延岡に出向いた経緯を確認する。

 まずは、この村上氏との出会いだが、請われて延岡に出向くことになる8年より以前からの知り合いとのことだ。
 この方は肥後の国鏡町にお住まいで、水産技師で水産加工品を販売していたようだ。
 この方が東京に出て石塚氏に出合うのだが、その当時は大河原兄一と名乗っていたとのことだ。石塚氏から、あなたの先祖は村上を姓とし、元神武天皇に奉仕せるものとの御神託を告げられたことで村上氏の本姓に戻したとのことだ。
 同誌では「事実この方の本姓は村上氏だったとのことで、その本姓に復帰して熱心なる国体尊崇者になられた」と紹介される。

 次に、請われて延岡に出向く経緯を確認する。
 石塚氏がこの村上氏から延岡への史跡調査を乞う手紙を大正12年(1923)10月23日に鳴子で受け取ることになるようだ。
 石塚氏はこの年の9月1日の関東大震災で被災されてイテ、10月12日には陸前の大日本霊鷲山居住遠藤氏を頼って鳴子温泉に疎開していたようなのだ。
 手紙は東京へ向けられた書留郵便だったようだが、それが鳴子に廻送されてきたということのようだ。

 九州に出発するのは11月2日で、肥後国有左駅到着が5日夕刻とのことだ。
 この日は鏡町の大河原(本姓村上)氏宅に宿泊するが、この夜に金光教講師重松藤太郎氏が訪れる。そして、その方との約束で、7日午後3時からの皇室の神聖なる真の所以、八百万の神の実在霊魂の不滅についての講演をしたとのことだ。
 この時の参加者は、同町の有識者層の殆ど全部と、その他に熊本からの来聴者がいたのだとか。
 この日の夕刻には、南延岡駅下車仲町貝深造氏宅へ向かう。そして、この方の肝いりで日野屋旅亭へ宿泊する。
 11月8日朝には、延岡新聞延岡時報者の方々の訪問を受ける。
 28日には調査を終了し、その結果を12月2日同町図書館で報告演説したとのことだ。

 おおよその経緯は上記のようだが、別項で紹介される「史跡開明に尽力の七星の内」には、村上氏、貝深造氏の他に霊元常孝氏、児玉徳次郎氏、河野成章氏が紹介される。
 霊元氏と児玉氏については本文中での紹介が確認できないが、河野成章氏については延岡への史跡調査を乞う手紙の中に次のようなこの方にふれる箇所がある。
 「日向国延岡町居住河野成章なる人、近頃不動明の霊験に依りて不治の難病を治し、種々の予言其の外奇跡的言行あり、同国に於ける神代史跡調査の為貴下の西下を求むるを可とするとの詫宣もあり、……」

 「史跡開明に尽力の七星の内」の後の二星は、延岡時報社社長山口徳之助氏と記者加藤周造氏だ。
by shingen1948 | 2020-02-24 12:58 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)