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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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愛宕神社 = 成出地蔵堂

 この辺りの湧水池をめぐっていた時に気になったのが、古い「清水地区文化財案内板」にある地蔵堂の案内だ。
愛宕神社 = 成出地蔵堂_a0087378_9182752.jpg これがその地蔵堂の案内部分だ。
 位置的には、万世大路沿いの愛宕神社でないのかなとは思ったのだが曖昧なままだった。
 ここにある施設を地図表記では愛宕神社となっているし、この施設の表示も愛宕神社なので、ますます曖昧になっていた。
 ちなみに、現在の新しくなった案内板では、地蔵堂が万世大路の西側に案内されるのだが、これが同じ地蔵堂なのかどうかは分からない。

 「郷土史物語」で確認できたことを整理する。
 同誌では「成出地蔵堂(愛宕さま)と高橋家」の項で解説されるのだが、その項目自体、成出地蔵堂=愛宕さまであることを示しているわけで、ここでもう曖昧さが解消したような気分になれた。
 ここは「岩代国信夫郡北沢又村字成出地蔵堂」と紹介される。明治11年書き上げの「仏堂明細帳」にもそう載っているとのことだ。
 ここを通称愛宕さまと紹介されることから、ここの明治以前の神仏習合の神名は愛宕権現で、イザナミを垂迹神として地蔵菩薩を本地仏としていたということが想像できる。

 「郷土史物語」では、この本地仏である地蔵菩薩について以下のように解説されている。
 この地蔵菩薩は、元々はこの道を挟んだ北側のT家屋敷の鬼門である戌亥の片隅に産土稲荷としてあったとのことだ。ただ、この屋敷の元々の主は川崎に移られ、地蔵菩薩も還座されたということだ。

 この成出地蔵堂もT家がかかわるようだが、それとは別に建てられたという経緯があるという。
 文政の頃に、このT家が家運を占ったところ、座敷人形の地蔵菩薩を川の南の他所の土地に祀られたいとのお告げだったことに基づいているとのことだ。
 集落みんなの協力を得て御堂を建てて、その地蔵菩薩を安置したとのことだが、お籠堂などは集落みんなの負担で建立されたのだとか。

 ここで「川の南の他所の土地に祀られたい」とあるが、この川が笹谷村と北沢又村の境界線だ。今はこの川には蓋が被せられ、飯坂街道まで川沿いの道筋に沿って流れている。
 つまり、T家屋敷は川に沿った道筋の北側にある笹谷村の成出であり、占いを元に建立した成出地蔵堂はこの道筋の南側で北沢又村ということになるようだ。

 地蔵堂と愛宕権現を統一的に捉えられない感覚は、明治以降の感覚のようだ。
 明治以前の神仏習合の愛宕権現は、塞神信仰や陰陽道の影響で戌亥の守護神であり、愛宕修験によって勝軍地蔵と習合して火火伏せの神になっているということのようだ。
 なお、この神社の本尊が甲冑姿の地蔵菩薩が馬に乗るという将軍地蔵の像容なのかどうかは、まだ確認していない。
by shingen1948 | 2019-09-20 09:20 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)