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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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泉澤山久盛院③

 「郷土史物語」で「香蓮庵」について語られる辺りの風景だ。
泉澤山久盛院③_a0087378_10572726.jpg
 左手の建物を同誌が言う「熊阪医院」とみている。
 その奥にもう一軒民家があって、その奥に路地が走る。その道の奥が乙天堂地域だ。
 その路地の突き当る丁字路の辺りに、墓地への入り口がある。

 「香蓮庵」が沢又桜内地内に再建されて泉澤山久盛院となる辺りを整理する。
 先に「松飾りを納めた泉八幡神社」で、泉澤山久盛院の由緒沿革を確認している。その中心とした資料は「寺院名鑑」だ。
 https://kazenoshin.exblog.jp/11993723/

 その由緒沿革の部分を再掲する。
 元和(1615)以前、宥仙和尚によって創立、寛永(1624~)年中播磨壱岐刑部久盛開基、宥全和尚開山。

 この中興開基者の壱岐家は、この時の整理では南沢又字中条の人としていた。
 「郷土史物語」では壱岐家について詳細に解説する。その中から開基者としてのかかわり部分のみを拾う。

 先の整理で久盛氏とした方は、泉に住した壱岐家先祖の盛永氏だろうとしている。そして、この方が「香蓮庵」を中興開基された方なのだろうと推測している。
 この寺は沢又桜内地内に再建されることになるのだが、これが「信達一統志」に記載される宝永4年(1707)宥全和尚の時代ということだ。
 この時に寺院名が泉澤山久盛院となる。
 この山号泉澤山については推測しやすい。前身地泉と沢又の沢からとっているのだと思われる。
 簡単には推測できないのが寺院名である久盛院の方だ。同誌でも、開基者である壱岐家先祖の盛永氏の名が何らかの形でかかわっているということまでは想像しているのだが、確かな事は分からないようだ。
 なお、泉澤山久盛院が沢又桜内地内に再建されて直ぐに焼失し、正徳年間に壱岐甚右衛門氏によって再建されたのだとか。

 先の整理では、この開基者が泉・沢又の二村を領する地頭のように記したが、同誌はその部分には疑念を持っているようだ。

 「郷土史物語」では、この地域の他の有力者の移転状況も記されるので、地域内の人の流れが見えてくる部分のみメモしておくことにする。

 T家出地が上名倉在家としたことについては先にふれた。他に八宝屋S家出地は八木田在家とか。また、清水内S家の出地は八木田白家とか。
by shingen1948 | 2019-09-08 11:00 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)