阿保原地蔵尊と阿弥陀堂の石仏達④
2019年 09月 05日
この辺りは水害が多く、阿弥陀堂が現大和田庵に落ち着くまでには数回の移転を繰り返したという。
この小高い丘地にあった俗称阿弥陀様は、その最初の阿弥陀堂があった場所だったということらしい。というのは、「無能和尚行業紀」の北沢又邑阿弥陀堂勧化の折に記される風景とを照らし合わせると、その風景がこの阿弥陀堂の風景と合致するという事のようだ。
「無能和尚行業紀」に記される風景は、以下のように記されているのだとか。
「小径を北から南に行って、天を突くばかりの松の大木の傍に阿弥陀堂がある。近くには水面一杯に蓮の花が浮かんで咲いている『心の字』の池がある。」
無能和尚は「小径を北から南に」進んだようだが、この辺りの1908年代の地図を眺めると、西の前田東から東の下台の方に延びる道筋から現大和田庵方向に向かう道筋が見える。現在はあぜ道になっているが、この古い道筋を想像する。
その道筋は庵前を南西に向かう道筋となって現在の道筋と重なる。現新道は、その道筋から田のあぜ道となっている道筋のようだ。
その道筋が、「郷土史物語」が記載するバス通りと交わる地点の東西に針葉樹林の記号が記され、道筋のやや東側に「史跡・名勝・天然記念物」の地図記号が記される。
これが、「小径を北から南に行って、天を突くばかりの松の大木の傍に阿弥陀堂がある」という風景とも重なるような気がする。
次の「近くには水面一杯に蓮の花が浮かんで咲いている「心の字」の池がある」という風景は地図からは読み取れない。
同誌が記す「その北西約50mのところに湧き水があった」とする風景描写が頼りだ。「この地点は、南沢又と北沢又の境界線が南北と東西を結ぶ交点地点だった」と記すので、現在の地図に南沢又と北沢又の境界線を表示させてみる。
その境界線を北西方向に見れるのは、バス道路の新道入り口付近、つまりは旧阿弥陀堂跡ということだ。
前回のこの部分を修正する。
旧阿弥陀堂付近から北西方向の境界線を眺めると、その境界線に沿って細い道筋が走っているようだ。北西方向はその細道の北側の出入り口付近だ。
ここに旧湧き水地を想像し、これが「心の字」の池だったところだろうと想像し直してみる。
曖昧さは残るが、この俗称阿弥陀様がこの地域の信仰心にかかわる神聖な処であったことは分かる。
そんな神聖な場所から現阿保原地蔵尊の石造群は移築されてきたということだ。
「阿保原地蔵尊②」で、裏面を確認させていただいたりしている時に、不審者とみられたことについてふれた。今なら、地域の人々にとっては信仰心の対象としているのに、自分は史跡としての見方で接していたという事でのギャップだったということが分かる。
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