地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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会津の「わたつみのこえ」を聞く38

 次の会話は、深い意味はなく、単に名前が似た方がお二人いらっしゃったということの確認だと思う。
 「武揚隊には長谷川信という人と、長谷部良平という人がいましたが、長谷部さんのことではないですよね?」
 前に秋元佳子さんに確かめたところ、長谷川さんに間違いないとのことだった。ところが、この長谷部良平伍長の行方が分かった。一人武揚隊として四月二十二日に知覧飛行場を飛び立って特攻戦死していた。

 とりあえず、「Web東京荏原都市物語資料館」から長谷部良平伍長の出身とか戦死とかにかかわる基本的な情報を拾っておこうと思った。
 まずは出身から武揚隊に所属するあたりの情報を拾う。
 故郷は高山線、上麻生にあるとのこと。そこから東航に進んだ東京陸軍少年飛行学校出身者とのことだ。
 その東航から熊谷飛行学校へ進み、それから山梨県玉幡飛行場に向かったとある。ここは軽爆訓練のためとあるが、木村氏は、ここで九九式襲撃機に乗ったのかなと想定しているようだ。
 そして、昭和19年8月に、ここから満州に渡ったということだ。

 当方には、恥ずかしながら知識不足から確認しなければならないことがいくつかあって、手間取っている。
 その一つが「東航」。
 「ウイキペディア」などから情報を拾うと、これは、東京陸軍航空学校の略なそうだ。
 ここは、航空兵科現役下士官となる少年飛行兵を志願した10代の生徒(14~17歳)に基本教育を行う学校とのことだ。
 昭和12年(1937)12月に設立、本校は東京府北多摩郡(現武蔵村山市)に置いたとある。
 約64ヘクタールの土地に校舎や校庭、グライダー用滑走路などを整備し、毎年入学する約1400人の10代の少年に1年で軍用機の操縦、整備、通信に当たる航空兵としての基礎教育を施した。
 昭和18年(1943)4月、東京陸軍少年飛行兵学校と改称。

 「東京陸軍少年飛行兵学校跡地」は現武蔵村山市指定旧跡になっているとのことで、次のような説明板が建っているとのこと。その説明から、学校の概要をとらえる。
 この「揺籃之地」石碑の建っている場所には,かつて東京陸軍少年飛行兵学校本部校舎がありました。
 東京陸軍少年飛行兵学校に入学するには小学校高等科卒業以上の学力を有する満14歳から17歳までの者とされていました。授業の科目は、午前中が国語・数学や兵器学など、午後は軍事教練等の術科と体操でした。また、学校北側の練兵場では、グライダーによる滑空訓練も行われていました。これら一年間の課程が終了すると、適性検査の後、操縦・整備・通信の各分野に分れた二年間の上級学校に進み、その後全国の飛行隊に配属となりました。
 当時の様子をとどめる建物は現在残っていませんが、かつての少年飛行兵学校の跡地には「東航正門跡」石碑と「揺籃之地」石碑が建てられています。
 武蔵村山市教育委員会では、市内に大きな軍事施設が存在したことと、少年飛行兵学校を卒業した多くの人たちが戦死したことを後世に伝え、世界恒久平和を祈るために、その記憶をとどめる二つの石碑が建立されている地を、「東京陸軍少年飛行兵学校跡地」として市の文化財(旧跡)に指定しました。
     平成21年3月
         武蔵村山市教育委員会

 受験資格の年齢だが、「ウイキペディア」では、操縦生徒は満17歳以上19歳未満、技術生徒は満15歳以上18歳未満としている。
 また、在校中は兵籍にある軍人ではなく、卒業後に上等兵の階級を与えられて部隊に配属されるとある。そこで、およそ1年の訓練と下士官候補者勤務を経て現役航空兵伍長に任官するという。

 これで、長谷部良平氏が伍長という役職であることも納得。
by shingen1948 | 2017-05-30 11:38 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)