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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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黒岩虚空蔵堂~満願寺④<「黒岩虚空蔵の算額」探索余談>

 前回まで、福島の伊達氏ゆかりの満願寺という見え方とのかかわりで、近くの寺々の移動情報を確認してみた。すると、その寺院の移動再建には上杉氏の家臣団のかかわりが強く感じられるようになった。
 実際の黒岩虚空蔵堂・満願寺散策では、たくさんの上杉氏の家臣団がかかわることを沢山目にしていたのだが、強く意識することはなかった。それが、これらの情報と接することで深く意識できるようになってきているように思える。

 福島の伊達氏ゆかりの満願寺という見え方で、もう一つ気になるのは、「芭蕉の足跡」として整理している「奥の細道」とのかかわりだ。
 仙台市の満願寺は、以下のように元々奥州白河郡関山の満願寺と案内された。

 「傳云奮在本州白河関。聖務帝。天平中為東夷静謐祈願建寺。安置光明皇后護持佛閲浮檀金聖観音。行基菩薩開山也。當家先君世崇敬之寄附神馬黄金等」

 この白河関山満願寺が、福島の伊達氏ゆかりの満願寺という見え方を経由して、仙台市の満願寺に繋がるということだ。その白河の関山満願寺には、芭蕉一行も訪れているということでのつながりだ。

 東北に住む者にはよく分からないが、都の人間にとっては陸奥という言葉には特有の感覚があるらしい。それで、外から東北に入る方々にとっては、「白河の関」にはその都から連続する世界との境界というシンボリックな特別なイメージを持つようなのだ。
 「奥の細道」では、そのテーマの出発点という意味もあって、芭蕉一行は旅心としてこの特別な「白河の関」を超えたとの実感が欲しかったようなのだ。
 しかし、芭蕉が白河を訪れた元禄2年(1689)の頃には、関跡とされるところがいくつかあって、この「白河の関」の所在地が曖昧だったようなのだ。
 それで、「関明神」にたどりついた芭蕉一行は、現在「古関跡」と比定される地も訪ねることになるようだが、そこには実体はなく曖昧さが残ったままだったようなのだ。というのは、旗宿の西の小高い丘にある「叢祠」があるところが、その「古関跡」だと定信公が断定するのは100年後の寛政12年(1800)とのことなのだ。

 芭蕉一行は、その「古関跡」を訪ねた後、霧雨の中関山に登って満願寺を訪ねてから矢吹に向かうのだが、その間のどこかで、ようやく旅心が定まったということなのだろうと思う。

 「白河観光協会ガイドマップ」では、この事について「源義経が参詣したと伝えられ、その面影を求めて芭蕉も立ち寄っています」と案内される。また、「奥の細道」にかかわる案内には、この寺が古刹故に芭蕉一行が訪れたというのも見る。
 しかし、ただの散策人には、芭蕉一行がここを訪ねた主目的は、旅心としてこの特別な「白河の関」を超えたとの実感を求めて関山の満願寺を訪ねたということなのだろうと思えるのだ。ただ、 結果的には、その古刹満願寺を訪ねているという事なのだろう思う。

 「白河観光協会ガイドマップ」では、その満願寺は次のように案内される。
 「満願寺(真言宗智山派)
 標高619mの関山の山頂にある山岳寺院で、聖武天皇が天平勝宝7年(755)、光明皇后の追善と万民のため、行基菩薩を開山として建てた寺院で、本尊の聖観音は天皇の持仏と伝えられています。また、聖武天皇御願所という勅額も伝来しています」

 「白河市のホームページ」では、その「聖武天皇御願所という勅額」について説明する中で、「満願寺の縁起」についてふれ、以下のように説明する。

 「『満願寺の縁起』には『行基東国より南部に帰り当山の霊場なることを奏上し、天平年間に開基し、光明皇后御宇三国伝来閻浮檀金の正観世音像を安置し皇室の祈願所とし、成就山満願寺といい、光明皇后の御親筆の額字を賜りたるを以て光明院という』と記されている」

 満願寺と聖武天皇と光明皇后とのかかわりが微妙に違うように説明されるが、同じページの「銅鐘」の解説では、「白河観光協会ガイドマップ」の解説に近い関係性で説明される。
by shingen1948 | 2019-02-18 12:17 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)