地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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会津の「わたつみのこえ」を聞く35

 住職が、石碑が建てられたときに明治学院大の学長がお参りに見えられたことを話されたとある。今は、その石碑は湖畔戸ノ口のゆかりの場所に建った石碑の事だろうと思っている。
 結論としてはそうなのだが、今回整理する途中で分かったのが、明治学院の場合、学長と学院長の役職があるということ。住職の言葉では学長だが、今回は、とりあえず学院長であることを想定して整理している。
 整理過程の中で、もう一つ想定して考えてみたのがこの石碑が「兵戈無用」の碑を指している場合のことだ。以下のようなことになる。

 この石碑が「兵戈無用」の碑であることを想定すれば、その建立は2002年。この時の学院長を確認すると、第11代久世了氏(1998年 - 2012年)ということになる。
 この久世了氏なら、「明治学院百年史」の第6章で学徒兵である長谷川信氏について実際に調査に当たられ、まとめ上げられた方のようだ。実際に会津へもおいでになったというし、 生き残った周辺の人々にインタビューもなさったとのことだ。

 一人の学徒兵の個人的な記録を以って学校史を構成するという事について、久世了氏は次のような思いを抱いていたようだ。座談会の発言資料から要約する。
 この長谷川信という学徒兵を取り上げることによって、明治学院の二つの側面がある程度伝えられるのではないかと考えたとのことだ。
 その一つの側面が、明治学院の校風がこういう人(長谷川信氏)を生み出したということ。
 もう一つの側面が、その反面として、そういうすぐれた学生をむざむざ学徒兵として戦地に送らなければならなかったという学院の非常に痛ましい経験があるということだ。

 この方の前の学院長が、第10代中山弘正氏(1994年 - 1998年)だ。
 この方は、1995年に学院としての戦争責任の清算、和解の試みをなされているのだが、「明治学院百年史」の第6章を学徒兵である長谷川信氏個人の記録で編集する試みは、その流れの一環でもあったということのようだ。
 また、この中山弘正氏の戦争責任の清算、和解の試みの前史ともいえる89年の昭和天皇の死去に伴う大学の対応というものもあって、この時の中心になられたのは森井眞元学長とのことだが、この久世氏も教員としてかかわっておられたという。

 このことにもふれておきたかったのは、「会津の『わたつみのこえ』を聞く27」でふれた会津人である第2代目学長井深梶之助氏とのかかわりだ。
 井深氏は、あの時代に天皇に殉じて自決した乃木希典大将夫妻を批判したという。
 その日記に「大ナル心得違ナリ。其ノ不健全ナル思想ノ表現ナリ」と書き、学生には「基督教倫理ノ立場ヨリ判断スレバソノ非ナルコト勿論ナレトモ真ノ武士道ヨリ見テモ心得違ト云フベキナリ」と全否定したとことについては先に整理した。
 この事を、井深学長は「天皇のためなら死ぬのが当然という殉死の思想に潜む危険性を心底嫌った」ととらえたとするのが学院の基本姿勢として脈々として流れていると捉えれば、久世氏が「兵戈無用」の碑建立に共鳴されても自然ではある。

 ただ、久世氏なら信氏の具体的な戦死情報をお持ちのはずだと思うので、住職がおっしゃる方とは違う気がする。
 今は、これは別々に会津の「わたつみのこえ」を聞いたお二人が、結果として同じような思いに至ったという事なのだろうと思っている。
by shingen1948 | 2017-05-26 09:28 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)