地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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黒岩虚空蔵堂~満願寺<「黒岩虚空蔵の算額」探索余談>

a0087378_17254677.jpg 虚空蔵堂への旧参道はこの山門の下の石段の下を通る。しかし、現在は虚空蔵堂へのお参りも、この山門から満願寺境内を経由するように案内される。

 半沢氏の「歴史地図」では、この満願寺の由緒沿革については「元和4年(1618)米沢の法泉寺(上杉氏菩提寺)の末寺となる。信夫伊達臨済宗の全寺院の筆頭。江戸時代の寺領は35万ご5斗8升3合(5町1反6畝6歩)」と記す。
 ちょっと気になるのは、その前に「もと天台宗か」とのメモがあることだ。

 門前の案内板でも、「天台宗だったこの寺が臨済宗妙心寺派に替わったのは、江戸時代の初めです」とあるので、単に満願寺が臨済宗となるのは、上杉氏がかかわるぐらいの関係性の想像でよいのかもしれない。
 「福島市寺院名鑑」の黒巌山満願寺の由緒沿革で、この事にかかわるのは「当寺はもと天台宗に属し大徳寺と称したが、現在は臨済宗妙心寺派である」としているところだ。

 ただ、うがった見方かもしれないが、専門家故に豊かな情報を持つはずだが、専門家故にうかつな事は記せないといったことがあるのかもとも……。

 この満願寺が「もと天台宗か」とのメモと関わりそうな情報が他にもあるのだ。
 福島の伊達氏ゆかりの寺社の情報だ。
 たとえば、「福島の伊達氏(津島亮資)」では、その「ゆかりの寺社」の項で、この満願寺が伊達氏の移封に伴って白河市関山から福島市黒岩に移り、更に宮城県に移動したものと記している。

 「封内風土記(仙台叢書出版協会)」では、仙台市の満願寺について以下のように解説する。

 成就山満願寺
 在奮寺小路。天台宗。東●山末寺。傳云奮在本州白河関。聖務帝。天平中為東夷静謐祈願建寺。安置光明皇后護持佛閲浮檀金聖観音。行基菩薩開山也。當家先君世崇敬之寄附神馬黄金等。白河家喪地之後後陽成帝。天正季前住慶重法印護持本尊到玉造郡岩出山。貞山君假設堂安置之。同帝慶長初移千仙臺城時●其地於州城之艮隅創建閲明神社及観音堂。而移寺為祈願處寄附三十六石餘之地傍院區如左。

 山号は成就山で、光明皇后護持仏とされる聖観音像本尊の天台宗寺院であることが確認できる。
 この寺は、天平年中に白河の関で行基開山として創建され、天正年中に玉造郡岩出山に移転し、更に慶長年初に仙台城下に移転したことも確認できる。ただ、この移動情報では、信夫郡とのかかわりは不明だ。

 それで、青葉区本町の現成就山満願寺の由来案内を確認すると、「建武2年(1355)8月10日,伊達(6世)基宗逝去の際,其の菩提所となる」とあることが記される。
 この基宗氏の法名が満願寺殿誠志堅貞大居士であり、その菩提寺が満願寺であるという情報が、信夫郡の満願寺情報を想像させるということのようなのだ。
 というのは、基宗氏の前代宗綱氏の頃から伊達氏の所領は信夫・伊達二郡となるようなのだ。
 基宗氏は、文保元年(1317)にその前代宗綱氏から家督を継いでいる。
 この時代、後宇多川法皇が院政から退き、実質的に後醍醐天皇の親政が始まるが、伊達氏に大きな動きはない。元弘三年(1333)には、基宗氏は、蔵人、左近衛将監、次に従五位下、宮内大輔に叙されているという。
 
 現満願寺がかかわるのかどうかは別にしても、少なくとも信夫郡に基宗氏がかかわる満願寺の存在が想像されるということになるようなのだ。
 ただ、半沢氏の「歴史地図」に記される「もと天台宗か」のメモが、どこまで意図されているのかは知らない。
by shingen1948 | 2019-02-03 17:31 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)