会津の「わたつみのこえ」を聞く34
2017年 05月 25日
「石碑が建てられたとき」というのが、湖畔戸ノ口のゆかりの場所に建った石碑の事なら、この石碑建立は昭和21年(1946)5月なので、第4代の矢野貫城氏(1939年 - 1948年)ということになる。
「明治学院百年史」によれば、この方は価値観が大きく変わる戦中から戦後にかけての院長だが、「今日内外之情勢は到底菲才不徳の私の是以上任に留まるべき時にあらざるを痛感」という昭和22年8月7日付の文書で、辞任の意思を明らかにしたとのことだ。
教育にかかわる変換点を確認すれば、昭和20年12月21日に文部次官通牒で「御真影」奉還が、昭和21年6月29日には「御真影奉安室」の撤去が指示されたとのことだ。その間の昭和21年1月1日には、天皇の人間宣言。
石碑建立の時期である昭和21年5月頃に強力に推し進められたのは、教職員適格審査の名のもとに教職員不適格者を摘発して教育界から追放する処置だという。
矢野氏は、その前の昭和21年2月7日に発足した「日本教育家の委員会」の日本側の委員会の一員として加わっているという。
矢野氏の信氏の石碑建立にかかわるかかわり方は、辞任前のけじめのつけ方の一つだったのかなと思う。
矢野氏のこの辞任は、11月に迫った創立70周年記念式を前にしての辞任であり、住宅難からしばらく学園内にとどまっていたこともあって、同情の声もあったのだとか。
住職がおっしゃる明治学院長が、この第4代の矢野貫城氏ならば、長谷川信氏の戦死についての情報は公式記録「4月12日与那国島北方洋上戦死」以外ないだろうと思う。住職が紹介する「長谷川君は飛行機の燃料がなくなるまでずっと飛んでいったんだとおっしゃっていましたよ」というのは、矢野氏の思いだったのだろうと想像する。