地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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黒岩虚空蔵堂~「虚空蔵堂記」②<「黒岩虚空蔵の算額」探索余談>

 「虚空蔵堂記碑文」は天保三年冬十二月に記された虚空蔵堂の縁記とのことだった。
 虚空蔵堂の創建について、「信達一統志」に紹介されるその「虚空蔵堂記碑文」から確認すると、以下のように記されているようだ。

 「作堂者誰山之記曰嵯峨天皇之御宇弘仁二年之春一比丘来創草一宇之梵刹云後世寛永十一年再作堂寄田者米澤候上杉定勝其臣古川重吉也」

 「山之記」を資料として、弘仁2年の春創建とし、米沢候上杉定勝の臣古川重吉が寛永11年に再建されたと読み取れる。

 虚空蔵堂の脇に立つ案内板では、以下のように説明される。

 「 <神社仏閣> 虚空蔵堂
 満願寺に伝わるこの虚空蔵堂は、弘仁2年(811)に造られたといわれている。現在のお堂は寛永11年(1634)に上杉藩の家臣古河善兵衛が、古くなったお堂を建てなおしたと記録に残っている。」

 おおよそ「虚空蔵堂記碑文」の内容を踏まえていることが分かる。ただ、その表現には微妙な差がある。
 その一つが、「満願寺に伝わるこの虚空蔵堂は」というふうに満願寺とのかかわりを強調していることだ。
 もう一つが、寛永11年の再建にかかわる記述が「古くなったお堂を建てなおしたと記録に残っている。」というふうに実証性を強調している事だ。
 いろいろな情報を探ると、ここで「記録に残っている」とするのは、「虚空蔵堂棟札」の墨書に「寛永11年」の記録と、上杉定勝公と古河善兵衛重吉の名が記されていたことを指しているらしいことが分かる。

 いつも散歩資料として活用させていただいている半沢氏の「歴史地図」では、「虚空蔵堂 信夫伊達両郡郡代官古河善兵衛<西根堰開削竣工の翌年寛永11年(1634)>堂宇を再建寄進」とメモされる。
 ここでは、西根堰開削で有名な信夫伊達両郡郡代官古河善兵衛氏が寛永11年に堂宇を再建寄進したことが強調されている。

 散歩資料として活用しているもう一つの資料「信達二郡村史」の虚空蔵堂創建にかかわる記述では、「弘仁2年(811)創建」と「寛永11年に堂宇を再建寄進」の間に、「慶長3年(1598)尾崎三郎左衛門重誉(上杉景勝臣)これを中興す」という記録を挿入している。

 これは、虚空蔵堂は満願寺とのかかわりが強い事と、その満願寺は上杉氏とのかかわりが強い事との関りが表現されたものだろうと想像する。
 慶長3年(1598)は上杉氏が会津転封となった年だ。この時からこの地も上杉氏領となる。
 中興者の尾崎三郎左衛門重誉(上杉景勝臣)については「浅川、松川散策の写真メモから33」でふれた「泉八家」のお一人だ。
 曖昧な情報が多いが、この時、羽州置賜郡北条郷宮沢、岩代信夫郡、上名倉、大森、黒岩、岡部等の村の支配を任されて、六千石役領下二千八百十石を賜ったとされる。この地の直接的な支配者だったということだろうか。
 https://kazenoshin.exblog.jp/238134235/

 半沢氏の「歴史地図」のメモから上杉氏とのかかわりを確認すると二つのメモが拾える。
 その一つが、「虚空蔵堂内陣に上杉定勝(米沢二代目)の寄進した厨子がある」とあるメモ。更にもう一つが、満願寺が「元和4年(1618)米沢の法泉寺(上杉氏の菩提寺)の末寺となる」とのメモがあり、その前に「元天台宗か?」とのメモがある。
by shingen1948 | 2019-01-13 09:36 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)