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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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会津の「わたつみのこえ」を聞く31

 信氏の戦死は、公式記録では「4月12日与那国島北方洋上戦死」とのことだ。
 「明治学院百年史」では、中村メモをもとに、その様子を解説する。その概要は次のようだ。

 松山から新田原に向かった武揚隊は、熊本建軍飛行場を経て済州島へ、さらに上海、枕州へと進んだという。ここから目的地台湾への最後の移動は分散で行われたとのことだ。
 4月11日夕刻に力石少尉を含む第1陣4機は無事台湾に着いたという。
 そして、第2陣山本隊長以下信氏も含めて残り9機が12日5時出発予定だったが、隊長機の接触事故で5時半出発になってしまったという。夜明け前に台湾着の予定が、洋上に出て30分で夜が明けてしまったのだという。
 そのせいもあって、グラマン機20機と遭遇して、編隊を解いて戦闘準備体制となり交戦、第1回目3機が火を噴く、第2回目2機、1機と、……。残る3機となる。
 この時、中村氏は右肩撃ち抜かれ左腕に盲貫、顔面に破片による裂創を負い戦闘不能となり、低空飛行で与那国島に向かい不時着したのだということだ。
 だいたいこんな様子が読み取れる。

 この辺りの事を「下北沢X物語(3137)~終章:悲運のと号第31飛行隊~」の情報と照らし合わせてみる。
 http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/52030134.html#more

 こちらの情報では、もともとの武揚隊は15機とあり、一機、長谷部良平機は各務原で機が不調だったらしくこれに遅れて離脱したとある。
 彼は、知覧にたどり着いて、4月20日に、第31振武隊と名を変えて特攻出撃していったそうだ。
 「明治学院百年史」の情報と照らし合わせると、こちらの台湾に向かう機は13機のようだ。1機少ない。
 3月25日にこの誘導機に当たった飛行第108戦隊の菱沼俊雄大尉の情報に、台湾まで付き添ったそうだが、済州島で吉原香機が機のトラブルで不時着するとある。このあたりとのかかわりだろうか。

 4月12日の交戦についての情報を照らし合わせてみる。
 上海から台湾へ前進中与那国島で敵機に遭遇し3名が交戦戦死する。爆装改修で銃器は降ろしている。なすすべもなく撃たれた。長谷川信少尉、西尾勇助軍曹、海老根重信伍長だ。このときに山本薫中尉他も与那国島に不時着し、大発艇で海路台湾にやっと渡った。
 「明治学院百年史」では、山本隊長の不時着と、その後についての情報がなく、こちらの情報では、「明治学院百年史」にある中村氏の与那国島への不時着は記載されていない。

 ここからは、長谷川信氏が抜けた後の武揚隊の情報だ。
 台湾に到着した武揚隊の残存部隊は、八塊飛行場から順次出撃したという。
 5月13日、5機出撃。山本薫中尉、五十嵐少尉、柄沢伍長の3名が特攻戦死とのこと。
 5月17日、3機出撃。高畑保雄少尉、五来軍曹の2名が特攻戦死。高畑機には飛行108戦隊の宮崎義次伍長同乗出撃したという。

 そして、昨日整理の7月19日の八塊飛行場から4機の出撃。
 1機は基隆沿岸に墜落、藤井清美少尉のみが特攻突撃したとのことだった。また、この4機の中に飯沼芳雄伍長がいるので、ここでの不明は2機だ。

 「下北沢X物語(3137)~終章:悲運のと号第31飛行隊~」では、最後に、消息不明として、中村欣男少尉 幹部候補生、力石文夫少尉 見習士官(特操2期)、春田政昭兵長 少年飛行兵15期を挙げている。
 ここも、「明治学院百年史」の情報と照らし合わせてみたい。
by shingen1948 | 2017-05-22 09:00 | ◎ 福島と戦争 | Comments(0)