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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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更にもう一つの奥の細道⑫

 手持ちの信夫の里散策資料では、一具氏が文政2年(1819)から4年間西裏の大円寺住僧だったという情報しかない。
 だからといって、全く手掛かりがないという事でもない。というのは、この方が浄土宗名越派奥州総本山專称寺で修行された方ということが分かっているからだ。

 信達地方には、この浄土宗名越派の庵が相当存在し、地域の人々の心に浸透していたという話を整理している。その概要を「蓮光寺への立ち寄り~地域の人々が伝える祈る心にかかわて」で整理している。
 最後に辿り着いた無能上人は熾烈過ぎるだろうが、「地域の人々が伝える祈る心」として整理した庵の住僧の方々のような過ごされ方ではないかと想像する。
 https://kazenoshin.exblog.jp/21283723/

 その中で、少なくとも俳諧の師でもあり、4年前に須賀川の市原たよ女を訪ねてて三人で歌仙を巻いた白石の修験「千手院」権大僧都岩間清雄法印の動向情報は持ち合わせていたはずだと思うのだ。
白石市広報誌「彼の生涯は旅に始まり旅に終わった【漂白(さすらい)の俳人 松窓乙二】」から、その時代の情報を拾ってみる。

 文政元年(1818年)に、63歳の法印は、函館の斧の柄社中からの要請にこたえて、3月下旬再び箱館にむかう。白石から七ヶ宿街道を、金山峠から上山、新庄、秋田、碇が関を通過し、弘前青森を経て8月15日に函館入港。門弟布席の家に着く。
 そして、翌年乙二氏を慕って素月尼が函館にきた素月尼が9月に客死する。乙二氏はその素月尼の遺骨を携えて松前に渡り、12月には松前を出て津軽の三厩に着く。
この出来事の年に、一具氏が西裏の大円寺住僧となっている。

 乙二氏は、翌年津軽の三厩を出て、弘前青森を経由して5月に白石に戻る。
 そして、この夏には北海道を経て中国地方への旅を計画して、越後に出る。しかし、水原で発病してしまい、迎えに来た息子の十竹に介護されて白石に戻る。
 それ以来、病床に就くことが多くなり、文政6年(1823)7月9日には、68歳で入滅する。

 一具氏が、大円寺の住職を後輩の坊さんに譲り江戸に登るのが、この年なのだ。
 この情報がかかるわっているのかどうか気になる所だが、行動が重なったということでしかないのかもしれない。


 一具氏が江戸に出た後、大坂の鼎左と共に「芭蕉翁奥の細道松島の文碑」建立の嘉永4年(1851年)までの乙二氏情報も確認しておく。

 先に、須賀川の多代女氏が江戸に出て、一具氏宅に3か月滞在して江戸から鎌倉江の島まで歩き、俳句仲間や学者と交流したことについてふれた。女氏にとっては、天保期(1830~44)の俳諧番付で前頭筆頭となるきっかけになる交流だったようだが、これが文政6年(1823)だ。それから続く乙二氏かかわりの情報。

 文政 8年(1825年)乙二の三回忌追善集「わすれす山」(きよ女編)
 文政10年(1827年)乙二の五回忌追善集「五とせ集」(太橘編)刊
 天保 6年(1835年)「乙二七部集」(一具道人・布席編)
by shingen1948 | 2018-12-24 10:17 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)