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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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更にもう一つの奥の細道⑪

 文政2年(1819)から4年間西裏の大円寺住僧一具氏は、磐城山崎村の専称寺で修行を重ね、天明の大飢餓(1781~1788)の時期に村山市楯岡の儀徳山本覚寺で得度をしているという。

 專称寺はそのころ、浄土宗の奥州総本山、そして同宗名越(なごえ)派の檀林(大学)だった。東北各地からやって来た修行僧が、寮舎で寝起きしながら勉強したという。
 名越派の特徴としては一念業成を説くことであり、いわば一念の念仏で、往生が決まるという教えだったということだ。
 白旗派の良暁はこれを異議だとし、江戸幕府を味方に付けて統合してしまうが、一時は非常に強い教線を張り、多くの傑僧と呼んで良い逸材を輩出ししたということだ。

 笹谷の熊野神社で「来迎山称名庵」が気になり、確認していったことを「地域の人々が伝える祈る心」として整理して行ったら、無能上人が称名念仏の中入寂された塞耳庵に辿り着いた。
 これが、專称寺が浄土宗の奥州総本山として非常に強い教線を張り、多くの傑僧と呼んで良い逸材を輩出していた頃の痕跡を辿る散策だったらしいということだ。

 文政2年(1819)から4年間西裏の大円寺住僧だった一具氏もまた、文化年間初期からおよそ20年その系統の修業をしていた僧らしいということだ。
 その修行僧時代の時期に、白石の修験「千手院」権大僧都岩間清雄法印と出会ったらしいということだ。

 「更にもう一つの奥の細道⑤」で、文化12年(1815)に、一具は乙二と連れ立った俳諧の旅に出て、須賀川の市原たよ女を訪ねて三人で歌仙を巻いたことにふれた。
 これが、西裏の大円寺住僧となる4年前だ。
 修行を終えて楯岡の本覚寺に戻る時期に重なる頃だろうか。
 この時、白石の修験「千手院」権大僧都岩間清雄法印である乙二氏は60歳。
 その乙二氏の前書きは「無南法師とともに石住といふ奥山家に宿りて」とのことで、一具氏を「無南法師」と呼称している。
by shingen1948 | 2018-12-21 09:29 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)