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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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更にもう一つの奥の細道⑩

 一具氏が強い影響を受けたという松窓乙二氏がどんな方かを確認している。その方がお住まいだったという白石の修験「千手院」は、現在存在しない。
 一具氏も出入りしていたであろう、その「千手院」のあった位置位は確認したいところだ。

 いろいろ探り初めの頃は、ヒントの情報として「白石城の鬼門である北東に位置」とあることと、その街道筋に亘理医院があったので、こちらかなと思っていた。
 しかし、確認を進めていくと、現亘理歯科医院あたりとする情報が最も確からしいということが分かった。
 その情報源が白石市の広報誌「しろいし(1992・5月号)」だ。ここに乙二 氏を特集する記事があり、そこに安政3年の白石城下地図をもとにした情報だった。

 今回の乙二氏の確認を通して印象が強くなったのが、乙二氏の本性は亘理氏であるということだ。この事はいろいろな解説で知っていたが、それ程印象深い事ではなかった。
 それが、確認を通してその印象が強くなったのだ。

 「千手院」は、亘理郡の城主片倉小十郎景綱が慶長7年に白石城に移った事とかかわって白石に移ったが、元々は亘理郡にあって、四十余りの修験場の頭としてはぶりを聞かせていたというだった。これは、前回整理した事だが、これも亘理かかわりだ。
 それだけではなく、安政3年の白石城下地図に描かれる「千手院」と現況を照らし合わせると、おおよそ「現亘理町」の範囲と重なっているようなのだ。
 更には、ご子息は現在亘理姓のようなのだ。

 広報誌の特集題は、「彼の生涯は旅に始まり旅に終わった【漂白(さすらい)の俳人 松窓乙二】」ということで、その旅の行程まで詳しく記される。
 漂白(さすらい)の俳人という生き方も、一具氏に影響を与えていたのだろうなと思うがどうだろうか。
by shingen1948 | 2018-12-18 11:32 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)