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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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更にもう一つの奥の細道⑨

 「更にもう一つの奥の細道⑦」で、「子規手製俳句カルタ」に乙二氏の句も「乙二 凍るぞといふ声わびし草履の緒」として紹介されていることについてふれた。
a0087378_1145147.jpg これは、「国立国会図書館デジタルコレクション」に収められる「子規手製俳句カルタ」の乙二氏のその句の札だ。

 一具氏は松窓乙二氏の門人という関係性がある。それで、今回は、その松窓乙二氏について少し確認しておこうかなと思う。

 松窓乙二氏は、蕉風俳句を受け継ぐ「奥州四雄」 のひとりということで、その関係性は語られる。しかし、氏には別の顔もあるようだ。
 その一つが、氏は白石の亘理町にあったという「千手院」という修験の住職だったということだ。
 修験の家については何度か整理しているが、自宅に祈祷所をつくり、戦勝や防災・家内安全など様々な祈祷を仕事としていたということだ。
 修験は、修業のために他の地域に移動する事も多いので、城主からスパイのような情報収集を命じられることも多かったともいう。

 この「千手院」だが、元々は亘理郡にあって、四十余りの修験場の頭としてはぶりを聞かせていたということだ。
 その「千手院」が白石に移るのは、亘理郡の城主片倉小十郎景綱が慶長7年に白石城に移った事とかかわるとのことだ。
 この時に、「千手院」初代清昭氏が乞われて白石城下の鬼門の方角に千手院を移したとのことだ。

 乙二氏は、宝暦5年(1755年)に、その「千手院」六代清聲氏の長男として誕生する。(情報によっては、清聲氏は千手院第九代とするものもある)。その父清馨(隣々舎麦蘿)氏に俳諧を学んだという事だ。
 整理すると、松窓乙二氏は、俳諧師の顔の他に、千手院第七代?あるいは十代?の修験で、権大僧都岩間清雄法印という顔があるということだ。
 これとかかわって、更にもう一つの顔が、白石城主第10代 片倉小十郎景貞(俳号 鬼孫)の俳句の師匠であり、よき知恵袋だったということだ。
by shingen1948 | 2018-12-16 11:48 | Comments(0)