地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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更にもう一つの奥の細道④

 文政2年(1819)から4年間大円寺住僧の一具氏にかかわる情報を確認していくと、瑞巌寺の「芭蕉翁奧の細道松島の文」の碑もかかわりある事が分かる。
 瑞巌寺には何度も出かけているし、境内に巌窟や石仏、それに多くの碑が並んでいることは知ってる。ただ、これらを今まで意識的な見方をしたことはなかった。

 瑞巌寺の案内板の最後に、この碑について以下のようにふれている。
 「瑞巌寺境内の嘉永4年(1851)建立の「松島の文碑」は、芭蕉碑中でも屈指の物であろう。碑の側面の句中、乙二の句には「古今を壓(あっ)して独り卓然」の子規評がある」

 この碑は「抑ことふりにたれと松島は……」から始まる「芭蕉翁奥の細道松島の文」を刻したもののようだ。
 この碑を中心となって建立したのが大阪の鼎左と江戸の一具らしい。
 この碑の脇と裏には、12人の俳句が刻まれているという。
 その中に、江戸一具とあるのが、大円寺住僧高橋一具氏のようなのだ。
 松島や 水無月もはや 下りやみ 江戸一具

 催主大阪鼎左とあるのが、共に建立の中心となった藤井鼎左氏のようで、「寝れは水のうちにありけり千松島」が刻まれる。

 案内板でふれられていた乙二氏の句は「はるの夜の爪あかりなり瑞巖寺」
 この方は、一具氏にとっては俳句の師にあたる方のようだ。一具氏の経歴を確認すると、浄土宗名越派の奥州総本山「専称寺」で修業していた時期に、この松窓乙二氏の門下だったことが確認できる。

 その松窓乙二氏は、「日本国語大辞典」では「岩間乙二」として、以下のように紹介される。
 「江戸後期の俳人。別号松窓。奥州白石の千手院住職。夏目成美らとともに当時の四大家といわれた」

 一具氏とのかかわりで、少し確認できているのは、ここで須賀川多与女とある市原多代女氏だ。
 この碑では「こゝろやゝ まとめて月の 千松島」が確認できる。
 この方と一具氏との関りは、「専称寺」のあるいわき市の散歩資料で見かけている。
 文化12年(1815)に、一具は乙二と連れ立った俳諧の旅に出て、須賀川の市原たよ女を訪ねて三人で歌仙を巻いたとある。

 この方は須賀川では有名な俳人のようで、須賀川市のホームぺージ「須賀川人物伝市原たよ女」でも、福島県の「うつくしま電子事典」でも確認できる。
 「須賀川市人物読本 先人のあしあと」という資料では、48歳で実現した江戸登り記録「すががさ日記」が紹介される。
 そこに江戸に出た一具氏とかかわる記載が確認できる。
 1月25日に須賀川を出たたよ女氏は、9日目の2月3日に江戸に着く。そこで、江戸に出ていた一具氏宅に3か月滞在しているようなのだ。(資料では「俳句の仲間の一具庵夢南(いちぐあんむなん)という人」となっている。)この間に江戸から鎌倉江の島まで歩き、俳句仲間や学者と交流したことが記されるということだ。
by shingen1948 | 2018-12-08 10:05 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)