人気ブログランキング |

地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30

更にもう一つの奥の細道②

 境内には、たくさんの俳人の墓碑についての案内板が建っている。
 その案内板に交じって、大円寺の概要を説明する案内板があった。
a0087378_4335320.jpg この後半に、今回確認しようとしていた楯岡の俳人一具氏にふれている箇所があった。

 「西裏時代に、文政2年(1819)から4年間、住僧だった一具は俳人として知られ、この地方だけでなく、江戸俳壇の重鎮として活躍したのは有名である」

 一具氏がかかわる大円寺かどうかは曖昧だったのだが、その可能性が高いことが確認できたということだ。

 説明にある「西裏時代」というのが、その前に解説される部分だ。
 福島城下の西裏大福座という劇場があった敷地が大円寺の境内であった。明治14年4月の甚兵衛火事とよばれる大火で罹災し、仮堂のままであったが、明治32年4月に現在地に移った。

 前回整理した立石寺根本中堂脇に立つ句碑の建立とのかかわりだが、「福島の大円寺の住職だったか、江戸に出た時期だったか」が曖昧だった。
 しかし、案内板の説明によれば、福島大円寺住職は、「文政2年(1819)から4年間」とのことであり、その後江戸に出ているという。
 立石寺句碑建立は、嘉永6年(1853)4月のことだ。江戸に出て30年が経っているということになる。

 また、福島の大円寺住職になる文政2年(1819)時点で39歳という別情報をみつけた。照らし合わせると、立石寺句碑建立の嘉永6年(1853)4月は73歳ということになる。
 一具氏の没年情報を確認すると、「嘉永6年11月17日、享年73歳で、深川霊厳寺に埋葬された」とある。
 立石寺句碑建立は、その7か月前ということで、最晩年の出来事だったということになる。

 今回「更にもう一つの奥の細道」としている。それは、先に「もう一つの奥の細道」として整理しているからだ。
 その「もう一つの奥の細道」の正岡子規氏が、信夫の里にやって来るのは明治26年7月24日のことだ。「『もう一つの奥の細道』⑩~『信夫(忍)の里』」で整理している。
 https://kazenoshin.exblog.jp/11586775/
 この信夫山にもやって来る。それを「『坂の上の雲』⑤~子規と福島」で整理している。
 https://kazenoshin.exblog.jp/9636207/
 その時には、ここに大円寺はない。案内板の説明と照らし合わせると、福島城下の西裏に仮堂のままの状態だったということだ。
 この辺りは信夫山を背にして南が開けているので暖かいとのことなので、木々がうっそうと繁っていたということだろう。説明からは、珍しい楠木の大木の生育がその名残りと読み取れる。
by shingen1948 | 2018-11-30 10:32 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)